《せわ》しく動いたのを悟ると、
「ああ、貴方は相変らずの煩瑣《スコラ》派なんですね。その時あの洋橙《オレンジ》があったかどうか、お訊ねになりたいのでしょう。けれども、人間の記憶なんて、そうそう貴方がたに便利なものではございませんわ。第一、昨夜は眠らなかったとは思っていますけれども、その側から、仮睡《うたたね》ぐらいはしたぞと囁《ささや》いているものがあるのです」
「なるほど、これも同じことですよ。館中の人達がそろいもそろって、昨夜は珍しく熟睡したと云っているそうですからね」とさすがに法水も苦笑して、「ところで十一時というと、その時誰か来たそうですが」
「ハァ、旗太郎様と伸子さんとが、御様子を見にお出でになりました。ところが、ダンネベルグ様は、果物は後にして何か飲物が欲しいと仰言《おっしゃ》るので、易介がレモナーデを持ってまいりました。すると、あの方は御要心深くも、それに毒味をお命じになったのです」
「ハハァ、恐ろしい神経ですね。では、誰が?」
「伸子さんでした。ダンネベルグ様もそれを見て御安心になったらしく、三度も盃《グラス》をお換えになったほどでございます。それから、御寝《おやすみ》になったらしいので、旗太郎様が寝室の壁にあるテレーズの額をはずして、伸子さんと二人でお持ち帰りになりました。いいえ、テレーズはこの館では不吉な悪霊のように思われていて、ことにダンネベルグ様が大のお嫌いなのでございますから、旗太郎様がそれに気付かれたというのは、非常に賢い思い遣《や》りと申してよろしいのです」
「だが、寝室にはどこぞと云って隠れ場所はないのですから、その額に人形との関係はないでしょう」と検事が横合から口を挾んで「それよりも、その飲み残りは?」
「既《とう》に洗ってしまったでしょう。ですが、そういう御質問をなさると、ヘルマン([#ここから割り注]十九世紀の毒物学者[#ここで割り注終わり])が嗤《わら》いますわ」鎮子は露骨に嘲弄《ちょうろう》の色を泛《うか》べた。
「もし、それでいけなければ、青酸を零《ゼロ》にしてしまう中和剤の名を伺いましょうか。砂糖や漆喰《しっくい》では、単寧《タンニン》で沈降する塩基物《アルカロイド》を、茶といっしょに飲むような訳にはまいりませんわ。それから十二時になると、ダンネベルグ様は、扉《ドア》に鍵をかけさせて、その鍵を枕の下に入れてから、果物をお命じになり、あの洋橙《オレンジ》をお取りになりました。洋橙《オレンジ》を取る時も何とも仰言《おっしゃ》いませず、その後は音も聞えず御熟睡のようなので、私達は衝立《ついたて》の蔭に長椅子を置いて、その上で横になっておりました」
「では、その前後に微かな鈴のような音が」と訊ねて、鎮子の否定に遇うと、検事は莨《たばこ》を抛り出して呟《つぶや》いた。
「すると、額はないのだし、やはり夫人はテレーズの幻覚を見たのかな。そうして完全な密室になってしまうと、創紋との間に大変な矛盾が起ってしまうぜ」
「そうだ、支倉君」と法水は静かに云った。「僕はより以上微妙な矛盾を発見しているよ。先刻《さっき》人形の室で組み立てたものが、この室に戻って来ると、突然《いきなり》逆転してしまったのだ。この室は開けずの間だったと云うけれども、その実、永い間絶えず出入りしていたものがあったのだよ。その歴然とした形跡が残っているのだ」
「冗談じゃない」熊城は吃驚《びっくり》して叫んだ。「鍵穴には永年の錆がこびり付いていて、最初開く時に、鍵の孔が刺さらなかったとか云うぜ。それに、人形の室と違って、岩乗な弾条《ぜんまい》で作用する落し金なんだから、どう考えても、糸で操れそうもないし、無論|床口《ゆかぐち》にも陰扉《かくしど》のないという事は、既《とう》に反響測定器で確かめているんだ」
「それだから君は、僕が先刻《さっき》傴僂《せむし》が療《なお》っていると云ったら、嗤《わら》ったのだよ。自然がどうして、人間の眼に止まる所になんぞ、跡を残して置くもんか」と一同を像の前に連れて行き、「だいたい幼年期からの傴僂には、上部の肋骨が凸凹になっていて数珠玉《じゅずだま》の形をしているものだが、それがこの像のどこに見られるだろう。だが、試しに、この厚い埃を払って見給え」
そして、埃の層が雪崩《なだれ》のように摺《ず》り落ちた時だった。噎《む》っとなって鼻口を覆いながらも瞠《みひら》いた一同の眼が、明らかにそれを、像の第一肋骨の上で認めたのであった。
「そうすると数珠玉の上の出張った埃を、平に均《なら》したものがなければならない。けれども、どんなに精巧な器械を使ったところで、人間の手ではどうして出来るものじゃない。自然の細刻だよ。風や水が何万年か経って岩石に巨人像を刻み込むように、この像にも鎖されていた三年のうちに、傴僂《せ
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