t」――の全文が刻まれていた。しかし、床上には足跡がなく、恐らく算哲の葬儀の際にも、古式の殯室儀《ひんしつぎ》は行われなかったものらしい。そうして、前室より先には誰一人入らなかったことが判ると、疑題のすべてはそこに尽きてしまった。つまり、水を洗手台から導いて、階段を落下させたという目的は、きわめて推察に容易ではあるが、次の煖炉《ストーブ》の点火という点になると、その意図には皆目見当がつかないのだった。勿論、壁の開閉器函《スイッチばこ》は蓋《ふた》が明け放されていて、接触刃《ナイフ》の柄がグタリと下を向いていた。検事は、その柄を握って電流を通じたが、足元に開いている排水孔を見やりながら、知見を述べた。
「つまり、洗手台の水を使って、階段から落下させたというのは、床の埃の上に附いた足跡を消すにあったのだよ。すると、どうしても根本の疑義と云うのは、この室《へや》の本開閉器《メイン・スイッチ》を切ったのと、それから、扉《ドア》に鍵を下して室外に出てから、クリヴォフを刺した――その一人二役にあるという訳になるがね。しかし、どうあっても僕には、レヴェズがそんな、小悪魔《ポルターガイスト》の役を勤めたとは信じられんよ。必ずその解答は、君が発見した|紋章のない石《クレストレッス・ストーン》――にあるに相違ないのだ」
「なるほど、明察には違いないが」といったんは率直に頷《うなず》いたが法水は、続いて憂わしげに瞬《またた》いて、「しかし、この際の懸念と云うのは、かえって、レヴェズの心理劇の方にあるのだよ。と云ってまた、この室の鍵の行衛が、案外見えなかったレヴェズに関係があるのかもわからんし……」とパッパッと烈しく莨《たばこ》を燻《くゆ》らしていたが、熊城の方を向いて、「とにかく、犯人がいつまでも身につけている気遣いはないのだから、まず鍵の行衛を捜すことだ。それから、レヴェズを見つけて連れて来ることなんだ」
ようやく悪夢から解放されたような気持になって、旧《もと》の礼拝堂に戻ると、そこには再び、装飾灯《シャンデリヤ》の燦光《ひかり》が散っていた。その下で、聴衆はここかしこに地図的な集団を作って固まっていたが、壇上の三人は、それぞれに旧《もと》いた位置から動かされなかったので、それでなくても不安と憂愁のために、追いつめられた獣のように顫《ふる》え戦《おのの》いていた。クリヴォフ夫人の死体は、階段の前方にほとんど丁字形をなして横たわっていた。それが俯向《うつむ》きに倒れ、両腕を前方に投げ出していて、背の左側には、槍尖《ランス・ヘッド》らしい桿《かん》状の柄が、ニョキリと不気味に突っ立っていた。死体の顔には、ほとんど恐怖の跡はなかった。しかも、奇妙に脂ぎっていて、死戦時の浮腫《ふしゅ》のせいでもあろうか、いつも見るように棘々《とげとげ》しい圭角《けいかく》的な相貌が、死顔ではよほど緩和されているように思われた。ほとんど、表情を失っている。けれども、その――一見、安らかな死の影とも思われるものは、同時にまた、不意の驚愕《きょうがく》が起した、虚心状態とも推察されるのだった。そして、死体の背窪を一杯に覆うて凝結した血が、指差している手の形で、大きな溜りを作っていて、なお薄気味悪いことには、その指頭が壇上の右方に向けられていた。が、それ等の光景の中で、最も強く胸を打ってくるのは、その殺人事件に適《ふさ》わしからぬ対照であった。槍尖《ランス・ヘッド》の根元には、滲み出ている脂肪が金色《こんじき》に輝いていて、それと宮廷楽師《カペルマイスター》の朱色の上衣とが、この惨状全体をきわめて華やかに見せていたのである。
法水は仔細に兇器の柄を調査したが、それには指紋の跡はなかった。そして、柄の根元にはモントフェラット家の紋章が鋳刻されていて、引き抜くとはたしてそれが、二叉《ふたまた》に先が分れている火焔形の槍尖《ランス・ヘッド》だった。しかし、兇行の際に現われた自然の悪戯《いたずら》は、最も肝腎《かんじん》な部分を覆うてしまった。と云うのは壇上からその位置までの間に、いっこう血滴が発見されないことだった。云うまでもなく、その原因と云うのは、刃がすぐ引き抜かれなかったという点にあって、勿論それがために、瞬間の迸血《ほうけつ》が乏しかったからである。しかし、それによって、なにより犯行を再現するに欠いてはならない、連鎖が絶たれてしまった。つまり、クリヴォフ夫人が壇上のどの点で刺され、そうしてまた、どういう経路を経て墜落した――かという二つの絡《つなが》りを、もはや知り得べくもないのだった。法水は検屍を終えると、聴衆を室外に出してしまってから、階段を上って行った。すると、伸子がまず、夢に魘《うな》されたような声で叫び立てた。
「あのファウスト博士は、まだまだ私を苦しめ足りない
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