衣嚢《かくし》から何やら取り出そうとした。法水は振り向きもせず、背後に声を投げて、
「ところで熊城君、指紋は?」
「説明のつくものなら無数にある。それに、昨夜この空室《あきしつ》に被害者を入れた時だが、その時寝台の掃除と、床だけに真空掃除器を使ったというからね。生憎《あいにく》足跡といっては何もない始末だ」
「フム、そうか」そういって法水が立ち止ったのは、突当りの壁前《へきぜん》だった。そこには、さしずめ常人ならば、顔あたりに相当する高さで、最近何か、額《がく》様のものを取り外したらしい跡が残ってい、それがきわめて生々しく印《しる》されてあった。ところがそこから折り返して旧《もと》の位置に戻ると、法水は卓子灯《スタンド》の中に何を認めたものか、不意《いきなり》検事を振り向いて、
「支倉君、窓を閉めてくれ給え」と云った。
検事はキョトンとしたが、それでも、彼のいうとおりにすると、法水は再び死体の妖光を浴びながら、卓子灯《スタンド》に点火した。そうなって初めて検事に判ったのは、その電球が、昨今はほとんど見られない炭素《カーボン》球だと云う事で、恐らく急場に間に合わせた調度類が、永らく蔵《しま》われていたものであろうと想像された。法水の眼はその赭《あか》っ茶けた光の中で、覆《シェード》の描く半円をしばらく追うていたが、いま額の跡を見付けたばかりの壁から一尺ほど手前の床に、何やら印《しるし》をつけると、室《へや》は再び旧《もと》に戻って、窓から乳色の外光が入って来た。検事は窓の方へ溜めていた息をフウッと吐き出して、
「いったい、何を思いついたんだ?」
「なにね、僕の説だってその実グラグラなんだから、試しに、眼で見えなかった人間を作り上げようとしたところさ」と法水は気紛《きまぐ》れめいた調子で云ったが、その語尾を掬《すく》い上げるような語気とともに、熊城は一枚の紙片を突き出した。
「これで、君の謬説《びゅうせつ》が粉砕されてしまうんだ。なにも苦しんでまで、そんな架空なものを作り上げる必要はないさ。見給え。昨夜《ゆうべ》この室《へや》には、事実想像もつかない人物が忍んでいたのだ。それを洋橙《オレンジ》を口に含んだ瞬間に知って、ダンネベルグ夫人が僕等に知らそうとしたのだよ」
その紙片の上に書かれてある文字を見て、法水はギュッと心臓を掴《つか》まれたような気がした。検事は、むしろ呆れたように叫んだ。
「テレーズ! これは自働人形じゃないか」
「そうなんだよ。これにあの創紋を結びつけたなら、よもや幻覚とは云われんだろう」と熊城も低く声を慄《ふる》わせた。「実は、寝台の下に落ちていたんだが、それをこのメモと引合わせてみて、僕は全身が慄毛《そうげ》立った気がした。犯人はまさしく人形を使ったに違いないのだ」
法水は相変らず衝動的な冷笑主義《シニシズム》を発揮して、
「なるほど、土偶人形に悪魔学《デモノロジイ》か――犯人は、人類の潜在批判を狙《ねら》っているんだ。だが、珍しく古風な書体だな。まるで、半大字形《アイリッシュ》か波斯文字《ネスキー》みたいだ。でも君は、これが被害者の自署だという証明を得ているのかい?」
「無論だとも」熊城は肩を揺ぶって、「実は、君達が来た時にいたあの紙谷《かみたに》伸子という婦人が、僕にとると最後の鑑定者だったのだ。で、ダンネベルグ夫人の癖と云うのはこうなんだ。鉛筆の中ほどを、小指と薬指との間に挾んで、それを斜めにしたのを、拇指《おやゆび》と人差指とで摘《はさ》んで書くそうだがね。そういった訳で、夫人の筆蹟はちょっと真似られんそうだよ。それに、この擦《かす》れ具合が、鉛筆の折れた尖とピッタリ符合している」
検事はブルッと胴慄いして、
「怖ろしい死者の曝露《ばくろ》じゃないか。それでも法水君、君は?」
「ウム、どうしても人形と創紋を不可分に考えなけりゃならんのかな」と法水も浮かぬ顔で呟《つぶや》いた。
「この室《へや》がどうやら密室くさいので、出来ることなら幻覚と云いたいところさ。けれども、現実の前には、段々とその方へ引かれて行ってしまうよ。いやかえって人形を調べてみたら、創紋の謎を解くものが、その機械装置からでも掴めるかもしれない。何にしても、こう立て続けに、真暗な中で異妖な鬼火ばかり見せられているのだからね。光なら、どんな微かなものでも欲しい矢先じゃないか。とにかく、家族の訊問は後にして、とりあえず人形を調べることにしよう」
それから人形のある室《へや》へ行くことになって、私服に鍵を取りにやると、間もなくその刑事は昂奮して戻って来た。
「鍵が紛失しているそうです、それに薬物室のも」
「やむを得なけりゃ叩き破るまでのことだ」と法水は決心の色を泛《うか》べて、「だが、そうなると、調べる室が二つ出来てしまったことになる
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