「薬物室もか」今度は検事が驚いたように云った。「だいたい青酸加里なんて、小学生の昆蟲採集箱の中にもあるものだぜ」
 法水は関《かま》わず立ち上って扉《ドア》の方へ歩みながら、
「それがね、犯人の智能検査なんだよ。つまり、その計画の深さを計るものが、鍵の紛失した薬物室に残されているように思われるんだ」
 テレーズ人形のある室《へや》は、大階段の後方に当る位置で、間に廊下を一つ置き、ちょうど「腑分図」の真後にあたる、袋廊下の突当りだった。扉の前に来ると、法水は不審な顔をして、眼前の浮彫を瞶《みつ》めだした。
「この扉のは、ヘロデ王ベテレヘム嬰児《えいじ》虐殺之図と云うのだがね。これと、死体のある室の、傴僂《せむし》治療之図の二枚は、有名なオットー三世福音書の中にある插画なんだよ。そうなると、そこに何か脈絡でもあるのかな」と小首を傾《かし》げながら、試みに扉《ドア》を押したが、それは微動さえもしなかった。
「尻込みすることはない。こうなれば、叩き破るまでのことさ」熊城が野生的な声を出すと、法水は急に遮り止めて、
「浮彫を見たので、急に勿体なくなったよ。それに、響で跡を消すといかんから、下の方の板をそっと切り破ろうじゃないか」
 やがて、扉の下方に空けられた四角の穴から潜《もぐ》り込むと、法水は懐中電燈を点じた。円い光に映るものは壁面と床だけで何一つ家具らしいものさえ、なかなかに現われ出てはこない。が、そのうち右辺《みぎばた》からかけて室を一周し終ろうとする際に、思いがけなくも、法水のすぐ横手――扉《ドア》から右寄りの壁に闇が破れた。そして、そこからフウッと吹き出した鬼気とともに、テレーズ・シニヨレの横顔が現われたのであった。面の恐怖と云えば誰しも経験することだが、たとえば、白昼でも古い社の額堂を訪れて、破風《はふ》の格子扉に掲げている能面を眺めていると、まるで、全身を逆さに撫で上げられるような不気味な感覚に襲われるものだ。まして、この事件に妖異な雰囲気を醸《かも》し出した当のテレーズが、荒れ煤《すす》けた室の暗闇の中から、暈《ぼう》っと浮き出たのであるから、その瞬間、三人がハッとして息を窒《つ》めたのも無理ではなかった。窓に微かな閃光が燦《きら》めいて、鎧扉《よろいど》の輪廓が明瞭に浮び上ると、遠く地動のような雷鳴が、おどろと這い寄って来る。そうした凄愴《せいそう》な空気の中で、法水は凝然と眼《まなこ》を見据え、眼前の妖しい人型《ひとがた》を瞶《みつ》めはじめた――ああ、この死物《しぶつ》の人形が森閑とした夜半の廊下を。
 開閉器《スイッチ》の所在が判って、室内が明るくなった。テレーズの人形は身長《みのたけ》五尺五、六寸ばかりの蝋着せ人形で、格檣《トレリス》型の層襞《そうへき》を附けた青藍色のスカートに、これも同じ色の上衣《フロック》を附けていた。像面からうける感じは、愛くるしいと云うよりも、むしろ異端的な美しさだった。半月形をしたルーベンス眉や、唇の両端が釣り上ったいわゆる覆舟口《ふくしゅうこう》などと云うのは、元来淫らな形とされている。けれども、妙にこの像面では鼻の円みと調和していて、それが、蕩《とろ》け去るような処女の憧憬《しょうけい》を現わしていた。そして、精緻な輪廓に包まれ、捲毛の金髪を垂れているのが、トレヴィーユ荘の佳人テレーズ・シニヨレの精確な複製だったのである。光をうけた方の面は、今にも血管が透き通ってでも見えそうな、いかにも生々しい輝きであったが、巨人のような体躯《たいく》との不調和はどうであろうか。安定を保つために、肩から下が恐ろしく大きく作られていて、足蹠《あしひら》のごときは、普通人の約三倍もあろうと思われる広さだった。法水は考証気味な視線を休めずに、
「まるで騎士埴輪《ゴーレム》か鉄《くろがね》の処女としか思われんね、これがコペツキーの作品だと云うそうだが、さあプラーグと云うよりも、体躯の線は、バーデンバーデンのハンスヴルスト([#ここから割り注]独逸の操人形[#ここで割り注終わり])に近いね。この簡素な線には、他の人形には求められない無量の神秘がある。算哲博士が本格的な人形師に頼まないで、これを大きな操人形《マリオネット》に作ったのは、いかにもあの人らしい趣味だと思うよ」
「人形の観賞は、いずれゆっくりやってもらうことにしてだ」と熊城は苦々しげに顔を顰《しか》めたが、「それより法水君、鍵が内側から掛っているんだぜ」
「ウン驚くべきじゃないか。しかし、まさかに犯人の意志で、この人形が遠感的《テレパシック》に動いたという訳じゃあるまい」鍵穴に突き込まれている飾付の鍵を見て、検事は慄然《りつぜん》としたらしかったが、足許から始めて、床の足型を追いはじめた。跡方もなく入り乱れている、扉口から正面の窓際にかけて
前へ 次へ
全175ページ中15ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小栗 虫太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング