もこの室《へや》に入った者がなかったと云うのだし、家族の動静もいっさい不明だ。で、その洋橙《オレンジ》が載っていた、果物皿と云うのがこれなんだがね」
そう云って熊城は、寝台の下から銀製の大皿を取り出した。直径が二尺近い盞形《さかずきがた》をしたもので、外側には露西亜《ルッソ》ビザンチン特有の生硬な線で、アイ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ソウフスキーの匈奴《フン》族|馴鹿《トナカイ》狩の浮彫が施されていた。皿の底には、空想化された一匹の爬蟲類が逆立《さかだち》していて、頭部と前肢《まえあし》が台になり、刺の生えた胴体がく[#「く」に傍点]の字なりに彎曲して、後肢《あとあし》と尾とで皿を支えている。そして、そのくの字の反対側には、半円形の把手《にぎり》が附いていた。その上にある梨と洋橙《オレンジ》は全部二つに截ち割られていて、鑑識検査の跡が残されているが、無論毒物は、それ等の中にはなかったものらしい。しかし、ダンネベルグ夫人を斃《たお》した一つには、際立った特徴が現われていた。それが、他にある洋橙《オレンジ》とは異なり、いわゆる橙《だいだい》色ではなくて、むしろ熔岩《ラヴァ》色とでもいいたいほどに赤味の強い、大粒のブラッド・オレンジだった。しかも、その赭《あか》黒く熟れ過ぎているところを見ると、まるでそれが、凝固しかかった血糊のように薄気味悪く思われるのであるが、その色は妙に神経を唆《そそ》るのみのことで、勿論推定の端緒《いとぐち》を引き出すものではなかった。そして、蔕《へた》のないところから推して、そこから泥状の青酸加里が注入されたものと推断された。
法水は果物皿から眼を離して、室内を歩きはじめた。帷幕《とばり》で区劃《くぎ》られているその一劃は、前方の室といちじるしく趣を異にしていて、壁は一帯に灰色の膠泥《モルタル》で塗られ、床には同じ色で、無地の絨毯《じゅうたん》が敷かれてあって、窓は前室のよりもやや小さく、幾分上方に切られてあるので、内部ははるかに薄暗かった。灰色の壁と床、それに黒い帷幕《とばり》――と云えば、その昔ゴードゥン・クレイグ時代の舞台装置を想い出すけれども、そういう外見生動に乏しい基調色が、なおいっそうこの室を沈鬱なものにしていた。ここもやはり、前室と同様荒れるに任せていたらしく、歩くにつれて、壁の上方から層をなした埃が摺《ず》り落ちてくる。室内の調度は、寝台の側に大|酒甕《さけがめ》形の立|卓笥《キャビネット》があるのみで、その上には、芯の折れた鉛筆をつけたメモと、被害者が臥《ね》る時に取り外したらしい近視二十四度の鼈甲《べっこう》眼鏡、それに、描き絵の絹|覆《シェード》をつけた卓子灯《スタンド》とが載っていた。近視鏡もその程度では、ただ輪廓がぼっとするのみのことで、事物の識別はほとんど明瞭につくはずであるから、それには一顧する価値もなかった。法水は、画廊の両壁を観賞してゆくような足取りで、ゆったり歩を運んでいたが、その背後から検事が声をかけた。
「やはり法水君、奇蹟は自然のあらゆる理法の彼方にあり――かね」
「ウン、判ったのはこれだけだよ」と法水は味のない声を出した。「まるで犯人はテルみたいに、たった一矢で、露《む》き出しよりも酷い青酸を、相手の腹の中へ打《ぶ》ち込んでいるだろう。つまり、その最終の結論に達するまでに、光と創紋を現わすものが必要だったという事だ。云わばあの二つと云うのは、犯行を完成させるための補強作用であって、その道程に欠いてはならぬ、深遠な学理だとみて差支えない」
「冗談じゃない。あまり空論も度が過ぎるぜ」と熊城は呆れ返って横槍を入れたが、法水は平然と奇説を続けた。
「だって、鍵を下した室内に侵入して来て、一、二分のうちに彫らねばならない。そうなると、クライルじゃないがね。無理でも不思議な生理を目指すより仕方があるまい。それに、疑問はまだ、後へ捻《ねじ》れたような右手の形にも、それから、右肩にある小さな鉤裂きにもあるのだ」
「いや、そんなことはどうでもいいんだ」熊城は吐きだすように、「腹ん這いで洋橙《オレンジ》を嚥《の》み込んで、瞬間無抵抗になる――たった、それだけの話なんだよ」
「ところがねえ熊城君、アドルフ・ヘンケの古い法医学書を見ると、一人の淫売婦が、腕を身体の下にかって横向きになった姿勢のままで毒を仰いだのだが、瞬間の衝撃《ショック》を喰《くら》うと、かえって痺《しび》れた方の腕が動いて、瓶《びん》を窓から河の中へ投げ捨てたと云う面白い例が載っているぜ。だから一応は、最初の姿体を再現してみる必要があると思うね。それから死体の光は、アヴリノの『聖僧奇蹟集』などに……」
「なるほど、坊主なら、人殺しに関係あるだろう」と熊城は露骨に無関心を装ったが、急に神経的な手附になって、
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