があるのだ。ところが、剥《そ》がれた割れ口を見ると、それに痂皮《かひ》が出来ていない。まるで透明な雁皮《がんぴ》としか思われないだろう。が、この方は明らかな死体現象なんだよ。しかしそうなると、その二つの現象が大変な矛盾をひき起してしまって、創がつけられた時の生理状態に、てんで説明がつかなくなってしまうだろう。だから、その結論の持って行き場は、爪や表皮がどういう時期に死んでしまうものか、考えればいい訳じゃないか」
 法水の精密な観察が、かえって創紋の謎を深めた感があったので、その新しい戦慄《せんりつ》のために、検事の声は全く均衡を失っていた。
「万事剖見を待つとしてだ。それにしても、屍光のような超自然現象を起しただけで飽き足らずに、その上降矢木の烙印《やきいん》を押すなんて……。僕には、この清浄な光がひどく淫虐的《ザディスティッシュ》に思えてきたよ」
「いや、犯人はけっして、見物人を慾《ほ》しがっちゃいないさ。君がいま感じたような、心理的な障害を要求しているんだ。どうして彼奴《あいつ》が、そんな病理的な個性なもんか。それに、まったくもって創造的だよ。だがそれをハイルブロンネルに云わせると、一番淫虐的で独創的なものを、小児《こども》だと云うがね」と法水は暗く微笑《ほほえ》んだが、「ところで熊城君、死体の発光は何時頃からだね」と事務的な質問を発した。
「最初は、卓子灯《スタンド》が点いていたので判らなくなったのだ。ところが、十時頃だったが、ひととおり死体の検案からこの一劃の調査が終ったので、鎧扉を閉じて卓子灯《スタンド》を消すと……」と熊城はグビッと唾《つば》を嚥《の》み込んで、「だから、家人は勿論のことだが、係官の中にも知らないものがあるという始末だよ。ところで、今まで聴取しておいた事実を、君の耳に入れておこう」と概略の顛末を語りはじめた。
「昨夜家内中である集会を催して、その席上でダンネベルグ夫人が卒倒した――それがちょうど九時だったのだ。それからこの室《へや》で介抱することになって、図書掛りの久我鎮子《くがしずこ》と給仕長の川那部易介《かわなべえきすけ》が徹宵附添っていたのだが、十二時頃被害者が食べた洋橙《オレンジ》の中に、青酸加里が仕込まれてあったのだよ。現に、口腔《くち》の中に残っている果肉の噛滓《かみかす》からも、多量の物が発見されているし、何より不思議な事には、それが、最初口に入れた一房にあったのだ。だから、犯人は偶然最初の一発で、的の黒星を射当てたと見るよりほかになかろうと思うね。他の果房《ふさ》はこのとおり残っていても、それには、薬物の痕跡がないのだよ」
「そうか、洋橙《オレンジ》に※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」と法水は、天蓋の柱をかすかに揺ぶって呟《つぶや》いた。「そうすると、もう一つ謎がふえた訳だよ。犯人には、毒物の知識が皆無だという事になるぜ」
「ところが、使用人のうちには、これという不審な者はいない。久我鎮子も易介も、ダンネベルグ夫人が自分で果物皿の中から撰んだと云っている。それに、この室《へや》は十一時半頃に鍵を下してしまったのだし、硝子窓も鎧扉も菌《きのこ》のように錆《さび》がこびり付いていて、外部から侵入した形跡は勿論ないのだよ。しかし妙な事には、同じ皿の上にあった梨の方が、夫人にとると、はるかより以上の嗜好物だそうなんだ」
「なに、鍵が?」と検事は、それと創紋との間に起った矛盾に、愕然《がくぜん》とした様子だったけれども、法水は依然熊城から眼を離さず、突慳貪《つっけんどん》に云い放った。
「僕はけっして、そんな意味で云っていやしない。青酸に洋橙《オレンジ》という痴面《どうけめん》を被せているだけに、それだけ、犯人の素晴らしい素質が怖ろしくなってくるのだ。考えても見給え。あれほど際立った異臭や特異な苦味のある毒物を、驚くじゃないか、致死量の十何倍も用いている。しかも、その仮装迷彩《カムフラージュ》に使っているのが、そういう性能のきわめて乏しい洋橙《オレンジ》ときているんだ。ねえ、熊城君、それほど稚拙もはなはだしい手段が、どうしてこんな魔法のような効果を収めたのだろうか。何故《なぜ》ダンネベルグ夫人は、その洋橙《オレンジ》のみに手を伸ばしたのだろうか。つまり、その驚くべき撞着たるやが、毒殺者の誇りなんだ。まさに彼等にとれば、ロムバルジア巫女《ストリゲス》の出現以来、永生不滅の崇拝物《トーテム》なんだよ」
 熊城は呆気にとられたが、法水は思い返したように訊ねた。
「それから、絶命時刻は?」
「今朝八時の検屍で死後八時間と云うのだから、絶命時刻も、洋橙《オレンジ》を食べた刻限《じこく》とピッタリ符合している。発見は暁方の五時半で、それまで附添は二人ともに、変事を知らなかったのだし、また、十一時以後は誰
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