ェ憤怒に代っていったが、ようやく涙に濡れた頬のあたりが落着いてきて、「ですから、私が未だに解しかねているという意味が、これで、すっかりお判りでございましょう。あの方は私が粗相で立てた物音には、いっこうに触れようとはなさらなかったのですから」
「まったく僕も、貴女の立場には同情しているんです」と法水は慰めるような声で云ったが、心中彼は何事かを期待しているらしく思われた。「ところで貴女は、ダンネベルグ夫人がこの扉《ドア》を開いた際を御覧になりましたか。いったいその時、貴女はどこにいましたね?」
「マア、貴方《あなた》らしくもない。まるで、心理前派の旧式探偵みたいですこと」と伸子は、法水の質問に魂消《たまげ》たような表情を見せたが、「ところが、生憎《あいにく》とそのとき室《へや》を空けておりました。電鈴《ベル》が壊れていたので、召使《バトラー》の室へ花瓶の後始末を頼みに行っていたものですから。ところが、戻ってまいりますと、ダンネベルグ様が寝室の中にいらっしゃるではございませんか」
「そうすると、以前から帷幕《とばり》の蔭にいたのを、知らなかったのでは」
「いいえ、たぶん私を探しに、寝室の中へお入りになったのだろうと思いますわ。その証拠には、あの方の姿が、帷幕《とばり》の隙間からチラと見えた時には、そこから少し右肩をお出しになっていて、そのままの形でしばらく立っていらっしゃったのですから。そのうち側の椅子を引き寄せになって、やはりその、二つの帷幕《とばり》の中間《あいだ》の所へお掛けになりました。ねえいかが法水さん、私の陳述の中には、どの一つだって、算哲様をはじめ黒死館の精霊主義《アニミズム》が現われてはおりませんでしょう――だって、正直は最上の術策なりと申しますもの」
「ありがとう。もうこれ以上、貴女にお訊ねすることはありません。しかし、一言御注意しておきますが、仮令《たとえ》この事件の動機が、館の遺産にあるにしてもですよ、御自分の防衛ということには、充分御注意なさった方がいいと思います。ことに、家族の人達とは、あまり繁々《しげしげ》と接近なさらないように――。いずれ判るだろうと思いますが、それが、この際何よりの良策なんですからね」と意味あり気な警告を残して、法水は伸子の室を去った。しかし、その出際に、彼は異様に熱の罩《こ》もった眼で、扉《ドア》並びの右手の羽目《パネル》に視線を落した。そこには、彼が入りしなすでに発見したことであったが、扉から三尺ほど離れている所に、木理《もくめ》の剥離片《ささくれ》が突き出ていて、それに、黝《くろ》ずんだ衣服の繊維らしいものが引っ掛っていたからだ。ところで読者諸君は、ダンネベルグの着衣の右肩に、一個所|鉤裂《かぎざ》きがあったのを記憶されるだろうが、それにはまた、容易に解き得ない疑義が潜んでいるのだった。何故なら、常態の様々に想像される姿勢で入ったものなら、当然三尺の距離を横に動いて、その剥離片《ささくれ》に右肩を触れる道理がないからである。
それから法水は、暗い静かな廊下を一人で歩いて行った。その中途で、彼は立ち止って窓を明け、外気の中へ大きく呼吸《いき》を吐いた。それは、非常に深みのある静観だった。空のどこかに月があると見えて、薄っすらした光が、展望塔や城壁や、それを繁り覆うているかのように見える、闊葉樹の樹々に降り注ぎ、まるで眼前一帯が海の底のように蒼《あお》く淀んでいる。また、その大観を夜風が掃いて、それを波のように、南の方へ拡げてゆくのだった。そのうち、法水の脳裡にふと閃《ひらめ》いたものがあって、その観念がしだいに大きく成長していった。そして、彼は依然その場を離れないで、しかも、触れる吐息さえ怖れるもののように、じいっと耳を凝《こ》らしはじめたのだった。すると、それから十数分経って、どこからかコトリコトリと歩む跫音《あしおと》が響いてきて、それがしだいに、耳元から遠ざかっていくように離れていくと、法水の身体がようやく動きはじめ、彼は二度伸子の室に入っていった。そして、そこに二、三分いたかと思うと、再び廊下に現われて、今度は、その背面に当るレヴェズの室の前に立った。しかし、法水が扉《ドア》の把手《ノッブ》を引いた時に、はたして彼の推測が適中していたのを知った。何故なら、その瞬間、あの憂鬱な厭世家めいたレヴェズの視線――それには異様な情熱が罩《こ》もり、まるで野獣のように、荒々しい吐息を吐いて迫ってくるのに打衝《ぶつか》ったからである。
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第七篇 法水は遂に逸せり※[#感嘆符疑問符、1−8−78]
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一、シャビエル上人の手が……
故意に、法水《のりみず》が音を押えて、扉《ドア》を開いた時だった。その時レヴェズは、煖炉の
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