X《それぞれ》に伝え置きたり。
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旗太郎にも、同様|落胆《がっかり》したらしい素振が現われたけれども、さすがに年少の彼は、すぐに両手を大きく拡げて喜悦の色を燃やせた。
「これですよ法水さん、やっとこれで、僕は自由になることが出来ました。実を云いますと僕は、どこかの隅に穴を掘って、その中へ怒鳴ろうかと思いましたよ。でも、考えてみると、もしそんなことをした日には、あの怖ろしいメフィストが、どうして容赦するものですか」
こうして、ついに法水との賭《かけ》に、押鐘博士が勝った。しかし、内容を白紙と主張した法水の真意は、けっしてそうではなかったらしい。勿論その一言は、博士を抑えた得体の知れない、計謀には役立ったに相違ないが、恐らく内心では、黙示図の知れない半葉を喘《あえ》ぎ求めていたのであろう。そして、空しくこの刮目《かつもく》された一幕を、終らねばならなかったに違いない。ところが、不思議なことには、勝ち誇ったはずの博士からは、依然神経的なものが去らずに、妙に怯々《おどおど》した不自然な声で云うのだった。
「これでやっと儂《わし》の責任が終りましたよ。しかし、蓋を明けても明けなくても、結論はすでに明白です。要するに問題は、均分率の増加にあるのですからな」
そこで、法水等は広間《サロン》を去ることにした。彼は博士に対して、色々迷惑を掛けたことをしきりに詫びてから室を出たが、それから階上を通りすがりに、なんと思ってか、彼一人伸子の室に入っていった。
伸子の室は、幾分ポンパドゥール風に偏した趣味で、桃色《ピンク》の羽目《パネル》を金の葡萄蔦《ぶどうづた》模様で縁取っていて、それは明るい感じのする書斎|造《づくり》だった。そして、左側が細長く造られた書室に入る通路、右側の桔梗《ききょう》色した帷幕《とばり》の蔭が、寝室になっていた。伸子は法水を見ると、あたかも予期していたかのように、落着いて椅子を薦めた。
「もうそろそろ、お出でになる頃合だと思ってましたわ。きっと今度は、ダンネベルグ様のことをお訊きになりたいのでしょう」
「いやけっして、問題と云うのは、あの屍光にも創紋にもないのですよ。勿論、青酸《シヤン》には適確な中和剤がないのですから、貴女がダンネベルグ夫人と同じレモナーデを飲んだにしても、あながちそれには、例題とする価値はないでしょう」と法水は、彼女を安堵《あんど》させるためにまず前提をおいてから、「ところで、貴女はあの夜、神意審問会の直前にダンネベルグ夫人と口論なさったそうですが」
「ええ、しましたとも。ですけど、それについての疑念なら、かえって私の方にあるくらいですわ。私には、あの方が何故お怒りになったのか、てんで見当がつかないんですの。実は、こうなのでございます」と伸子は躊《ためら》わず言下に答えて、いっこうに相手を窺視《きし》するような態度もなかった。「ちょうど晩食後一時間頃のことで、図書室に戻さねばならないカイゼルスベルヒの『聖《セント》ウルスラ記』を、書棚の中から取り出そうとした際でございました。突然|蹌踉《よろめ》いて、持っていたその本を、隅にある乾隆硝子《けんりゅうガラス》の大花瓶に打ち当てて、倒してしまったのでございます。ところが、それからが妙なんですわ。そりゃひどい物音がしましたけれども、別にお叱りをうけるというほどの問題でもございません。それなのに、ダンネベルグ様がすぐとお出でになって……でございますもの。私には未だもって、すべてが判然と嚥《の》み込めないような気がいたしております」
「いや、夫人はたぶん貴女《あなた》を叱ったのではないでしょうよ。怒り笑い嘆く――けれども、その対象が相手の人間ではなく、自分がうけた感覚に内問している。そういうように、意識が異様に分裂したような状態――それは時偶《ときたま》、ある種の変質者には現われるものですからね」と法水は、伸子の肯定を期待するように、凝然《じいっ》と彼女の顔を見守るのだった。
「ところが、事実はけっして……」と伸子は真剣な態度で、キッパリ否定してから、「まるであの時のダンネベルグ様は、偏見と狂乱の怪物《ばけもの》でしかございませんでした。それに、あの尼僧のような性格を持った方が、声を慄《ふる》わせ身悶《みもだ》えまでして、私の身を残酷にお洗いたてになるのでした。馬具屋の娘……賤民《チゴイネル》ですって。それから、竜見川《たつみがわ》学園の保姆《ほぼ》……それはまだしもで、私は寄生木《やどりぎ》とまで罵《ののし》られたのですわ。いいえ、私だっても、どんなに心苦しいことか……。たとえ算哲様生前の慈悲深い思召《おぼしめ》しがあったにしても、いつまで御用のないこの館に、御厄介になっておりますことが、どんなにか……」と娘らしい悲哀《かなしみ》
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