スんだぜ」
 ディグスビイの意志が怖ろしい呪詛であることは、彼がそれを記すに、ホルバインの「|死の舞踏《トーテン・タンツ》」を用いただけでも明らかであるが、それにまして怖ろしく思われたのは、彼が執拗にも、数段の秘密記法《クリプトメニツェ》を用意していることだった。それを臆測すれば、恐らくどこかに一つの驚くべき計画が残されていて、それが醸《かも》し出してくる凶運を、難解きわまる秘密記法《クリプトメニツェ》にて覆い、人々がそれにあぐみ悩む有様を、秘かに横手で嗤《わら》おうという魂胆らしく思われるのだった。すなわち、その秘密記法《クリプトメニツェ》の深さは、この事件の発展に正比例するのではないか――。しかし、法水はその文中から、ディグスビイにもあるまじい、幼稚な文法をさえ無視している点や、また、冠詞のないことも指摘したのだったが、次の創世記めいた奇文に至ると、その二つの文章が、聯関している所は勿論、すべてが、宛然《さながら》霧に包まれたような観を呈しているのだった。それから、押鐘博士に遺言書の開封を依頼すべく、法水等は階下の広間《サロン》に赴《おもむ》いた。
 広間《サロン》の中には、押鐘博士と旗太郎とが対座していたが、一行を見ると立ち上って迎えた。医学博士押鐘童吉は五十代に入った紳士で、薄い半白の髪を綺麗《きれい》に梳《くしけず》り、それに調和しているような卵円形の輪廓で、また、顔の諸器官も相応して、それぞれに端正な整いを見せていた。総じて、人道主義者《ヒューマニタリアン》特有の夢想に乏しい、そして、豊かな抱擁力を思わせるものがあった。博士は、法水を見ると慇懃《いんぎん》に会釈して、彼の妻を死の幽鎖から救ってくれたことに、何度も繰り返して感謝の辞を述べた。しかし、一同が座に着くと、まず博士が興なげな調子で切り出した。
「いったいどうしたと云うんです。法水さん。いまに誰もかも、元素に還されてしまうのじゃないでしょうか。いったい、犯人は誰ですかな。家内は、その影像《ファントム》を見なかったと云ってますよ」
「さよう、まったく神秘的な事件です」と法水は伸ばした肢《あし》を縮めて、片肱を卓上に置いた。「ですから、指紋が取れようが糸が切れていようが、とうてい駄目なのです。要するに、あの底深い大観を闡明《せんめい》せずには、事件の解決が不可能なのですよ。つまり、臨検家《ヴィジター》が幻想家《ヴィジョナリー》となる時機にですな」
「いや、元来|儂《わし》は、そういう哲学問答が不得意でしてな」と警戒気味に、博士は眼を瞬《しばたた》いて法水を見た。そして、「しかし、貴方《あなた》はいま、糸と云われましたね。ハハハハ、それが何か令状と関係がおありですかな。法水さん、儂《わし》はこのままで凝《じ》っと、法律の威力を傍観していたいですよ」と早くも遺言書の開封に、不同意らしい意向を洩らすのだった。[#「洩らすのだった。」は底本では「洩らすのだった」]
「そりゃ云うまでもありません。家宅捜索令状などは、どこにも持っちゃいませんよ。だが、一人の辞職だけで済むものなら、たぶん僕等は法律も破りかねないでしょう」と熊城は憎々しげに博士を見据え異常な決意を示した。そのにわかに殺気立った空気の中で、法水は静かに云った。
「さよう、まさに一本の糸なんです。つまり、その問題は、算哲博士を埋葬した当夜にあったのですよ。たしか貴方は、あの晩この館へお泊りになられたでしょう。けれども、その時もしあの糸が切れなかったら――そうだとすれば、今日の事件は当然起らなかったはずです。ああ、あの遺言書が……。そうなれば、算哲一代の精神的遺物となることが出来たでしょうに」
 押鐘博士の顔が蒼ざめてみるみる白けていったが、糸――の真相を知らない旗太郎は、不自然な笑を作って、呟《つぶや》くように云った。
「ああ、僕は弩の絃《いと》のことをお話しかと思いましたよ」
 しかし、博士は法水の顔をまじまじと瞶《みつ》めて、突っかかるように訊ねた。
「どうも、仰言《おっしゃ》る言葉が判然《はっきり》と嚥《の》み込めませんが、しかし、結局あの遺言書の内容が、なんだと云われるんです?」
「僕は、現在では白紙だと信じているのです」と突然眼を険しくして、法水は実に意外な言《ことば》を吐いた。
「もう少し詳細に云いますと、その内容が、ある時期に至って、白紙に変えられたのだ――と」
「莫迦《ばか》な、何を云われるのです」と博士の驚愕《きょうがく》の色が、たちまち憎悪《ぞうお》に変った。そして、恥もなく、見え透いた術策を弄しているかの相手を、しげしげ瞶《みつ》めていたが、ふと心中に何やら閃《ひらめ》いたらしく、静かに莨《たばこ》を置いて云った。
「それでは、遺言書を作成した当時の状況をお聴かせして、貴方から、そういう妄信
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