、驚くべきじゃないか。これは、ホルバインの『|死の舞踏《トーテン・タンツ》』なんだよ。しかも、もう稀覯《きこう》に等しい一五三八年|里昂《リオン》の初版なんだ」
それには、四十年後の今日に至って、黒死館に起った陰惨な死の舞踊を予言するかのように、明瞭《はっきり》とディグスビイの最終の意志が示されていた。その茶の犢《こうし》皮で装幀された表紙を開くと、裏側には、ジャンヌ・ド・ツーゼール夫人に捧げたホルバインの捧呈文《デディケーション》が記され、その次葉に、ホルバインの下図《デザイン》を木版に移したリュッツェンブルガーの、一五三〇年バーゼルにおける制作を証明する一文が載せられていた。しかし、頁《ページ》を繰《く》っていって、死神と屍骸で埋められている多くの版画を追うているうちに、法水の眼は、ふとある一点に釘付けされてしまった。その左側の頁には、大身槍《おおみのやり》を振った髑髏人《どくろじん》が、一人の騎士の胴体を芋刺《いもざ》しにしている図が描かれ、また、その右側のは、大勢の骸骨が長管喇叭《トロムパ》や角笛《ホルン》を吹き筒太鼓《ケットル・ドラム》を鳴らしたりして、勝利の乱舞に酔いしれている光景だった。ところが、その上欄に、次のような英文が認《したた》められてあった。それはインキの色の具合と云い、初めて見るディグスビイの自筆に相違なかったのである。
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“Quean《クイーン》 locked《ロックト》 in《イン》 Kains《ケインス》. Jew《ジュー》 yawning《ヨウニング》 in《イン》 knot《ノット》. Knell《ネル》 karagoz《カラギヨス》! Jainists《ジャイニスツ》 underlie《アンダーライ》 below《ビロウ》 inferno《インフェルノ》.”
――(訳文)。尻軽娘はカインの輩《ともがら》の中に鎖じ込められ、猶太人《ジュウ》は難問の中にて嘲笑う。凶鐘にて人形([#ここから割り注]カラギヨス――土耳古(トルコ)の操人形[#ここで割り注終わり])を喚び覚ませ、奢那《ジャイナ》教徒ども([#ここから割り注]仏教と共通点の多い姉妹的宗教[#ここで割り注終わり])は地獄の底に[#「は地獄の底に」は底本では「の底に」]横たわらん。([#ここから割り注]以上は、判読的意訳である[#ここで割り注終わり])
そして、次の一文が続いていた。それは文意と云い、創世記に皮肉嘲説を浴びせているようなものだった。
――(訳文)。エホバ神《がみ》は半陰陽《ふたなり》なりき。初めに自らいとなみて、双生児《ふたご》を生み給えり。最初に胎《はら》より出でしは、女にしてエヴと名付け、次なるは男にしてアダムと名付けたり。しかるに、アダムは陽に向う時、臍《ほぞ》より上は陽に従いて背後に影をなせども、臍《ほぞ》より下は陽に逆《さから》いて、前方に影を落せり。神、この不思議を見ていたく驚き、アダムを畏《おそ》れて自らが子となし給いしも、エヴは常の人と異ならざれば婢《しもめ》となし、さてエヴといとなみしに、エヴ妊《みごも》りて女児《おなご》を生みて死せり。神、その女児《おなご》を下界に降《くだ》して人の母となさしめ給いき。
[#ここで字下げ終わり]
法水は、それにちょっと眼を通しただけだったが、検事と熊城はいつまでも捻《ひね》くっていて、しばらく数分のあいだ瞶《みつ》めていた。しかし、ついにつまらなそうな手付で卓上に投げ出したけれども、さすが文中に籠《こも》っているディグスビイの呪詛《じゅそ》の意志には、磅※[#「石+(蒲/寸)」、第3水準1−89−18]《ほうはく》と迫ってくるものがあったのは事実だった。
「なるほど、明白にディグスビイの告白だが、これほど怖ろしい毒念があるだろうか」検事は思いなし声を慄《ふる》わせて、法水を見た。「たしかに文中にある尻軽娘と云うのは、テレーズのことを指して云うのだろう。すると、テレーズ・算哲・ディグスビイ――とこの三角恋愛関係の帰結は、当然、カインの輩の中に鎖じ込められ[#「カインの輩の中に鎖じ込められ」に傍点]――の一句で瞭然たるものになってしまう。そして、ディグスビイはまず、この館に難問を提出し、そうしてから、その錯綜《ジグザグ》の結び目の中で、嘲笑《せせらわら》っているのだ」と検事は神経的に指を絡み合わせて、天井をふり仰いだ。「ああ、その次は、凶鐘にて人形を喚び覚せ[#「凶鐘にて人形を喚び覚せ」に傍点]――じゃないか。ねえ法水君、ディグスビイという不可解な男は、この館の東洋人どもが、ゴロゴロ地獄へ転がり込んで行く光景さえ予知していたのだよ。つまり、この事件の生因は、遠く四十年前にあったのだ。すでにあの男は、その時事件の役割を端役までも定めてい
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