サれが五時三十分。

    二、|大階段の裏《ビハインド・ステイアス》に……

 法水が十二宮《ゾーディアック》から引き出した解答――|大階段の裏《ビハインド・ステイアス》には、その場所と符合するものに、二つの小室《こしつ》があった。一つは、テレーズ人形の置いてある室《へや》で、もう一つは、それに隣り合っていて、内部《なか》は調度一つない空部屋になっていた。法水はまず後者を択んで把手《ノッブ》に手を掛けたが、それには鍵も下りていず、スウッと音もなく開かれた。構造上窓が一つもないので、内部《なか》は漆黒《しっこく》の闇である。そして、煤《すす》けた冷やかな空気が触れてくる。ところが、先に立った熊城が、懐中電燈をかざしながら壁際を歩いているうちに、ふと何を聴いたものか、背後の検事が突然立ち止った。彼は、なにかしら慄然《りつぜん》としたように息を詰め、聴耳《ききみみ》を立てはじめたのであるが、やがて法水に、幽かな顫《ふる》えを帯びた声で囁《ささや》いた。
「法水君、君はあれが聴えないかね。隣りの室《へや》から、鈴を振るような音が聴えてくるんだ。凝然《じっ》と耳をすましてい給え。そら、どうだ。ああたしか、あれはテレーズの人形が歩いているんだ……」
 なるほど、検事の云うとおり、熊城が踏む重い靴音に交って、リリンリリンと幽かに顫えるような音が伝わってくる。無生物である人形の歩み――まさに、魂の底までも凍《い》てつけるような驚愕《おどろき》だった。しかし、当然そうなると、人形の側《かたわら》にある何者かを想像しなくてはならない。そこで三人は、かつて覚えたことのない昂奮の絶頂にせり上げられてしまった。もはや躊躇《ちゅうちょ》する時機ではない――熊城が狂暴な風を起して、把手《ノッブ》を引きちぎらんばかりに引いた時、その時なんと思ってか、法水が突如けたたましい爆笑を上げた。
「ハハハハ支倉君、実は君の云う海王星が、この壁の中にあるのだよ。だって、あの星は最初から既知数ではなかったのだからね。憶い出し給え、古代時計室にあった人形時計の扉《ドア》に、いったい何という細刻が記されていたか。四百年の昔に、千々石《ちぢわ》清左衛門がフィリップ二世から拝領したという梯状琴《クラヴィ・チェンバロ》は、その後所在を誰一人知る者がなかったのだよ。たぶんあの音は、截《た》たれた絃《いと》が、震動で顫《ふる》え鳴ったのだろう――。最初は、重い人形が隣室の壁際を歩んだ。そして、次は今の熊城君だ。つまり、|大階段の裏《ビハインド・ステイアス》――の解答と云うのは、この隣室との境にある壁のことなんだよ」
 しかし、その壁面にはどこを探っても、隠し扉が設けてあるような手掛りはなかった。そこでやむなく、その一部を破壊することになった。熊城は最初音響を確かめてから、それらしい部分に手斧《ておの》を振って、羽目《パネル》に叩きつけると、はたしてそこからは、無数の絃が鳴り騒ぐような音が起った。そして、木片が砕け飛び、その一枚を手斧とともに引くと、羽目《パネル》の蔭からは冷えびえとした空気が流れ出てくる――そこは、二つの壁面に挾まれた空洞だった。その瞬間、悪鬼の秘密な通路が闇の中から掴み取られそうな気がして、三人の唾《つば》を嚥《の》む音が合したように聴えた。打ち下す音とともに、梯状琴《クラヴィ・チェンバロ》の絃の音が、狂った鳥のような凄惨な響を交える。それは、周囲の羽目《パネル》を、熊城が破壊しはじめたからだった。ところが、やがてその一劃から埃まみれになって抜け出してくると、彼は激しい呼吸の中途で大きな溜息を吐き、法水に一冊の書物を手渡した。そして、グッタリとした弱々しい声で云った。
「何もない――隠し扉《ドア》も秘密階段も揚蓋《あげぶた》もないんだ。たったこの一冊だけが収穫だったのだよ。ああ、こんなものが、十二宮秘密記法の解答だなんて」
 法水も、この衝撃からすぐに恢復することは困難だった。明らかにそれは、二重に重錘《おもし》の加わった、失望を意味するのだから。では、何故かと云うに、ディグスビイが設計者だったということから、ほとんど疑う余地のなかった秘密通路の発見に、まずまんまと失敗してしまった――それは、無論云うまでもないことである。けれども、それと同時に、事件の当初ダンネベルグ夫人が自筆で示したところの、人形の犯行という仮定を、わずかそれ一筋で繋ぎ止めていた顫音《せんおん》の所在が明白になった。それなので、いよいよ明瞭《はっきり》とここで、あのプロヴィンシヤ人の物々しい鬼影を認めなければならなくなってしまったのだ。しかし、以前の室《へや》に戻ってその一冊を開くと、法水は慄然《りつぜん》としたように身を竦《すく》めた。けれども、その眼には、まざまざと驚嘆の色が現われた。
「あ
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