ス故なら、空気中の濛気を中心に生じたのではなく、棧の上に溜った露滴が因で発したからなんだ。つまり、問題は、七色の背景をなすものにあった訳だが、……しかし、より以上の条件というのが、その虹を見る角度にあったのだ。言葉を換えて云えば、火術弩《かじゅつど》が落ちていた――つまり、当時犯人がいた位置のことなんだよ。しかも、あの隻眼《せきがん》の大女優が……」
「なに、押鐘津多子※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」熊城は度を失って叫んだ。
「うん、虹の両脚の所には、黄金《こがね》の壺があると云うがね。恐らく、あの虹だけは捉えることが出来るだろう。何故なら熊城君、だいたい虹には、視半径約四十二度の所で、まず赤色が現われる。勿論その位置というのが、ちょうど火術弩の落ちていた場所に相当するのだ。また、その赤色をクリヴォフ夫人の赤毛に対称するとなると、いかにも標準《ねらい》を狂わせるような、強烈な眩耀《ハレーション》が想像されてくる。けれども、近距離で見る虹は二つに割れていて、しかも、その色は白ちゃけて弱々しい」と法水はいったん口を閉じたが、みるみる得意気な薄笑《うすわらい》が泛《うか》んできて云った。「ところが熊城君、押鐘津多子だけには、けっしてそうではないのだよ。何故かと云うのに、片眼で見る虹は一つしかないからだ。それに、明暗の度が強いために色彩が鮮烈で側にある同色のものとの判別が、全然つかなくなってしまうのだよ。ああ、あの|渡り鳥《ワンダー・フォーゲル》――それは、まずレヴェズの恋文となって、窓から飛び込んできた。そして、それが偶然クリヴォフ夫人の赤毛の頸《くび》を包んで、さてそれによって標的を射損ずるような欠陥のあるものと云えば、津多子をさておいて、他にはないのだよ」
「なるほど。しかし、君はいま、虹のことをレヴェズの恋文と云ったね?」検事が聴き咎《とが》めて、自分の耳を疑うような面持で訊ねたが、それに法水は慨嘆するような態度で、彼特有の心理分析を述べた。
「ああ、支倉君、君はこの事件の暗い一面しか知らないのだ。何故なら君は、あの赤毛のクリヴォフが宙吊りになる直前に、伸子が窓際に現われたのを忘れてしまったからだよ。だから、レヴェズはそれを見て伸子が武具室にいると思い、それから噴泉の側で、あの男の理想の薔薇を詠《うた》ったのだよ。ところで君は、『ソロモンの雅歌』の最終の章句を知っているかね。吾《わ》が愛するものよ、請う急ぎ走れ。香ばしき山々の上にかかりて、鹿のごとく、小鹿のごとくあれ――と。あの神に対する憧憬《しょうけい》を切々たる恋情中に含めている――まさに世界最大の恋愛文章だが、それには、愛する者の心を、虹になぞらえて詠っているのだ。あの七色――それはボードレールによれば、熱帯的な狂熱的な美しさとなり、またチャイルドが詠うと、それから、旧教主義《カトリシズム》の荘重な魂の熱望が生れてくるのだ。また、その抛物線を近世の心理分析学者どもは、滑斜橇《トボガン》で斜面を滑走してゆく時の心理に擬している。そして、虹を恋愛心理の表象にしているのだよ。ねえ支倉君、あの七色は、精妙な色彩画家のパレットじゃないか。また、ピアノの鍵《キイ》の一つ一つにも相当するのだ。そして、虹の抛物線は、その色彩法《コロリー》でもあり、旋律法、対位法でもあるのだ。何故なら、動いてゆく虹は、視半径二度ずつの差で、その視野に入ってくる色を変えてゆくからだよ。つまり、レヴェズは、韻文の恋文を、虹に擬《なぞら》えて伸子に送ったのだ」
 それによると、最初のうち法水は、レヴェズが虹を作ったことを、他の何者かを庇《かば》おうとする騎士的行為と見做《みな》していたらしかったが、さらに深く剔抉《てっけつ》していって、ついにそれが恋愛心理に帰納されてしまうと、必然犯人がクリヴォフ夫人を射損じたことを、偶然の出来事に帰してしまうより他にないのだった。しかし、検事と熊城には、そのいずれもが実証的なものでないだけに、半信半疑と云うよりも、何故法水が虹などという夢想的なものにこだわっていて、肝腎《かんじん》の算哲の墓※[#「穴かんむり/石」、324−8]《ぼこう》発掘を行わないのだろう――と、それが何より焦《もどか》しく思われるのだった。ことに、レヴェズの恋愛心理が、後段に至ってこの事件最後の悲劇を惹起《じゃっき》しようなどとは、てんで思いも及ばなかったことだろうし、また、法水が押鐘津多子を犯人に擬したことにも、それ以外にある重大な暗示的観念が潜んでいようなどとは、勿論気づく由もなかったのである。こうして、いったん絶望視された事件は、短時間の訊問中に再び新たな起伏を繰り返していったが、続いて、現象的に希望の全部がかけられている、|大階段の裏《ビハインド・ステイアス》――を調査することになった――
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