オて、両肱を水平に上げ、その拳《こぶし》を両耳の根につけて、それを左右に揺ぶりながら、喜悦《よろこばしさ》に恍惚《うっとり》となった瞳で、彼女は宙になんという文字を書いていたことであろう。意外にも思いもよらなかった歓喜の訪れが、伸子をまったく狂気のようにしてしまったのである。
「ああ眩《まぶ》しいこと……。私、この光が、いつかは必ず来ずにはいないと……それだけは固く信じてはいましたけれど……でも、あの暗さが」と云いかけて、伸子は見まいとするもののように眼を瞑《つむ》り、首を狂暴に振った。「ええ何でもして御覧に入れますとも。踊ろうと逆立ちしようと――」と立ち上って、波蘭輪舞《マズルカ》のような※[#4分の3、1−9−21]拍子を踏みながら、クルクル独楽《こま》みたいに旋廻を始めたが、卓子《テーブル》の端にバッタリ両手を突くと、下った髪毛《かみのけ》を蓮葉《はすっぱ》に後の方へ跳ね上げて云った。「でも、鐘鳴器《カリルロン》室の真相と、樹皮亭《ボルケンハウス》から出られなかったことだけは、どうかお訊きにならないで。だって、この館の壁には、不思議な耳があるんですもの。それを破った日には、いつまで貴方の御同情をうけていられるか、怪しくなってまいりますわ。サア、次の訊問を始めて頂だい」
「いや、もうお引き取りになっても。まだ、ダンネベルグ事件について、参考までにお訊きしたい事はあるのですが」と法水はそう云って、いつまでも狂喜の昂奮から、去ることの出来ない伸子を引き取らせた。長い沈黙と尖った黒い影――彼女が去った後の室内は、ちょうど颱風一過後の観であったがそこにはなんとも云えぬ悲痛な空気が漲《みなぎ》っていた。何故なら、彼等は伸子の解放を転機として、もはや人間の世界には希望を絶たれてしまったからだ。あの物凄じい黒死館の底流――些細な犯罪現象の個々一つ一つにさえ、影を絶たないあの大魔力に、事件の動向は遮二無二《しゃにむに》傾注されてゆくのではないか。熊城は顔面を怒張させて、しばらくキリキリ歯噛みをしていたが、突然法水が引き抜いた|差込み《プラグ》を床に叩きつけた。そして、立ち上って荒々しく室内を歩き廻っていたが、それに、法水は平然と声を投げた。
「ねえ熊城君、これでいよいよ、第二幕が終ったのだよ。もちろん、文字どおりの迷宮混乱紛糾さ。だがしかしだ、たぶん次の幕の冒頭《しょっぱな》にはレヴェズが登場して、それから、この事件は、急降的に破局《キャタストロフ》へ急ぐことだろうよ」
「解決――莫迦《ばか》を云い給え。僕はもう、辞表を出す気力さえなくなっているんだぜ。たぶん最初から、ト書に指定してあるんだろう。第二幕までは地上の場面で、三幕以後は神筮降霊《しんぜいこうれい》の世界だ――とでも」と熊城は銷沈《しょうちん》したように呟くのだった。「とにかく、後の仕事は、君が珍蔵する十六世紀前紀本《インキュナプラ》でも漁《あさ》ることだ。そして、僕等の墓碑文を作ることなんだよ」
「うん、その十六世紀前紀本《インキュナプラ》なんだがねえ。実は、それに似た空論が一つあるのだよ」と検事は沈痛な態度を失わず、詰《なじ》るような険《けわ》しさで法水を見て、「ねえ法水君、虹の下を枯草を積んだ馬車が通った。――そして、木靴を履いた娘が踊ったのだ、――すると、この事件には一人の人間もいなくなってしまったのだよ。僕にはどうしても、この牧歌的風景の意味が判らないのだ。だいたいその虹――と云うのは、いったいどういう現象の強喩法《カタクレエズ》なんだね」
「冗談じゃない。けっしてそれは文典でも――詩でもない。勿論、類推でも照応でもないのだよ。実際に真正の虹が、犯人とクリヴォフ夫人との間に現われたのだがね」と法水が、未だに夢想の去りきらない、熱っぽい瞳を向けたとき、扉《ドア》が静かに開かれた。そして、突然何の予告もなしに、久我鎮子の瘠せた棘々《とげとげ》しい顔が現われた。その瞬間、グイと息詰るようなものが迫ってきた。恐らくこの学識に富み、中性的な強烈な個性を持った神秘論者は、人間には犯人を求めようのなくなった異様な事件を、さらにいっそう暗澹《あんたん》たるものとするに相違ないのである。鎮子は軽く目礼を済ますと、いつものように冷淡な調子で云った。が、その内容はすこぶる激越なものだった。
「法水さん、私、まさかとは思いますわ。ですけど、貴方はあの渡り鳥のいうことを、無論そのままお信じになっているのじゃございますまいね」
「|渡り鳥《ワンダー・フォーゲル》※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」法水は奇異の眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って、咄嗟《とっさ》に反問した。つい今し方、自分が虹の表象として吐いた言葉が、偶然かは知らぬが、鎮子によって繰り返されたからである。

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