黷ス武具室の窓だっても、ちょうどあの辺だけが、美男桂の籬《いけがき》に遮られているのです。ですから、ああいう動物曲芸のあった事さえ、私はてんで知らなかったのです」
「でも、夫人の悲鳴だけは、お聴きになったでしょうな」
「勿論聴きましたとも」それがほとんど反射的だったらしく、伸子は言下に答えた。けれどもその口の下から、異様な混乱が表情の中に現われてきて、俄然声に慄《ふる》えを帯びてきた。
「ですけど、どうしても私は、あの樹皮亭《ボルケン・ハウス》から離れることが出来なかったのです」
「それは、また何故にです? だいたいそういう事が、根もない嫌疑を深めることになるんですぞ」熊城はここぞと厳しく突っ込んだが、伸子は唇を痙攣《けいれん》させ、両手で胸を抱いてからくも激情を圧えていた。しかし、その口からは、氷のように冷やかな言葉が吐かれた。
「どうしても、申し上げることは出来ません――この事は何度繰り返しても同じですわ。それより、ちょうどクリヴォフ様が、悲鳴をおあげになる一瞬ほど前のことでしたが、私はあの窓の側《かたわら》に、実は不思議なものがいるのを見たのですわ。それは、色のない透明《すきとお》ったものが光っているようでいて、そのくせどうも形体《かたち》の明瞭《はっきり》としていない、まるで気体のようなものでした。ところが、その異様なものは、窓の上方の外気の中から現われて来て、それがふわふわ浮動しながら、斜めにあの窓の中へ入り込んで行くのでした。その一瞬後に、クリヴォフ様が裂くような悲鳴をおあげになりました」と伸子は、まざまざ恐怖の色を泛《うか》べて、法水の顔を窺《うかが》うように見入るのだった。「最初私は、レヴェズ様があの際にいらっしゃったので、あるいは、驚駭噴泉《ウォーター・サープライズ》の飛沫かなとも思いました。でも考えてみますと、だいたい微風さえもないのに、飛沫が流れるという気遣《きづか》いはございませんわね」
「ふん、またお化《ばけ》か」と検事は顔を顰《しか》めて呟《つぶや》いたが、同時に唇の奥で、それとも伸子の虚言《うそ》か――と附け加えたのは当然であろう。しかし、熊城はただならぬ決意を泛《うか》べて立ち上った。そして、厳然と伸子に云い渡したのだった。
「とにかく、この数日間の不眠苦悩はお察ししますが、しかし今夜からは、充分よく眠られるように計らいましょう。だいたい、これが刑事被告人の天国なんですよ。捕繩で貴女の手頸《てくび》を強く緊めるんです。そうすると、全身に気持のよい貧血が起って、しだいにうとうととなってゆくそうですからな」
 その瞬間、伸子の視線がガクンと落ちて、両手で顔を覆い、卓上に俯伏《うつぶ》してしまった。ところが、続いて警察自動車を呼ぼうとし、熊城が受話器を取り上げた時だった。法水は何と思ったか、その紐線《コード》に続いている、壁の|差込み《プラグ》をポンと引き抜いて、それを伸子の掌の上に置いた。そうしてから、唖然となった三人を尻眼にかけ、陶然と彼の着想を述べたのである。ああ、事態は再び逆転してしまったのだった。
「実は、その――貴女にとって不運なお化《ばけ》が、僕に詩想を作ってくれました。これがもし春ならば、あの辺は花粉と匂いの海でしょう。しかし、裏枯れた真冬でさえも、あの噴泉と樹皮亭《ボルケン・ハウス》の自然舞台――それが僕に貴女の不在証明《アリバイ》を認めさせたのです。貴女もクリヴォフ夫人も、あの|渡り鳥《ワンダー・フォーゲル》……虹によって救われたのですよ」
「ああ、虹とは……。貴方は何を仰言《おっしゃ》るのです」伸子は突然弾ね上げたように身体を起して、涙で霑《うる》んだ美しい眼を法水に向けた。しかし、一方その虹は、検事と熊城を絶望の淵に叩き込んでしまった。恐らく二人にとれば、その刹那《せつな》が、あらゆる力の無力を直感した瞬間であったろう。けれども、その法水が持ち出した、華やかに彩色濃く響の高い絵には、どうしても魅了せずにはおかない不思議な感覚があった。法水は静かに云った。
「虹……まさにそれは、革鞭《かわむち》のような虹でした。ですが、犯人を気取ってみたり、久我鎮子の衒学的《ペダンティック》な仮面を被《つ》けたりしている間は、それに遮られていて、あの虹を見ることが出来なかったのです。僕は心から苦難をきわめていた貴女の立場に御同情しますよ」
「では、久我さんの言《ことば》を借りれば――動機変転《モチフ・ワンデル》。ねえ、そうでございましょう。でも、そんな隈取りは、もう既《とう》に洗い落してしまいましたわ。偽悪、衒学《ペダントリー》……そういう悪徳は、たしか、私には重過ぎる衣裳でしたわね」と第一日以来鬱積しきっていたものが、彼女の制御を跳ね越えて一時に放出された。伸子の身体がまるで小鹿のように弾み出
前へ 次へ
全175ページ中110ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小栗 虫太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング