オはやめにした方が……」
「いいえ私こそ、そんな危険な遊戯《ゲーム》に耽《ふけ》ることだけはお断りいたしますわ」と伸子は、あくまで意地強い態度で云い切った。
「真平《まっぴら》ですわ――あんな恐ろしい化竜《ドラゴン》に近づくなんて。だって、お考え遊ばせな。たとえば私が、その人物の名を指摘したといたしましょう。けれども、そんな浅墓《あさはか》な前提だけでもって、どうして、あの神秘的な力に仮説を組み上げることがお出来になりまして。かえって私は、鎧通し――という重大な要点に、貴方がたの法律的審問を要求したいのです。いいえ、私自身でさえ、自身が類似的には犯人だと信じているくらいですわ。それに、今日の事件だってそうですわ。あの赤毛の猿猴公《えてこう》が射られた狩猟風景にだっても、私だけには、不在証明《アリバイ》というものがございませんものね」
「それは、どういう意味なんです? いま貴女は、赤毛の猿猴公《えてこう》と云われましたね」と検事は注意深そうな眼をして聴き咎《とが》めたが、秘かに心中では、案外この娘は年齢の割合に手強いぞ――と思った。
「それが、また厳粛な問題なんですわ」伸子は口辺《こうへん》を歪めて、妙に思わせぶりな身振をしたが、額には膏汗《あぶらあせ》を浮かせていて、そこから、内心の葛藤が透いて見えるように思われる。いかに、絶望から切り抜けようと※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]《もが》いているか――すでに伸子は、渾身《こんしん》の精力を使い尽していて、その疲労の色は、重たげな瞼の動きに窺《うかが》われるのだった。しかし、彼女はズケズケと云い放った。「だいたいクリヴォフ様が殺されようたっても、悲しむような人間は一人もいないでしょうからね。ほんとうに、生きていられるよりも殺されてくれた方が……。その方がどんなに増しだと思っている人は、それは沢山あるだろうと思いますわ」
「では、誰だかその名を云って下さい」熊城はこの娘の翻弄《ほんろう》するような態度に、充分な警戒を感じながらも、思わずこの標題には惹《ひ》きつけられてしまった。「もし特に、クリヴォフ夫人の死を希っているような人物があるのなら」
「たとえば私がそうですわ」伸子が臆する色もなく言下に答えた。「何故なら、私が偶然にその理由を作ってしまったからでございます。以前内輪にだけでしたけれども、算哲様の御遺稿を、秘書である私の手から発表したことがございました。ところがその中に、クミエルニツキー大迫害に関する詳細な記録があったのでございます。それが……」と云いかけたままで、伸子は不意に衝動を覚えたような表情になり、キッと口を噤《つぐ》んだ。そしてややしばらく、云うまい云わせようとの苦悶と激しく闘っていたらしかったが、やがて、「その内容は、どうあっても私の口からは申し上げられません。しかし、その時から、私がどんなに惨めになったことでしょうか。無論その記録は、その場でクリヴォフ様がお破り棄てになりましたけど、それ以後の私は、あの方の自前勝手な敵視をうけるようになったのでございます。今日だってそうですわ。たかが、窓を開けるだけに呼びつけておいて、あの位置にするまでに、それは何度上げ下げしたことだったでしょう」
クメルニツキーの大迫害――。その内容は三人の中で、ただ一人法水だけが知っていた。すなわち、十七世紀を通じて頻繁《ひんぱん》に行われたと伝えられる、カウカサス猶太人《ジュウ》迫害中での最たるもので、それを機縁に、コザックと猶太人の間に雑婚が行われるようになったのである。しかし、クリヴォフ夫人が猶太《ユダヤ》人であることは、すでに彼が観破したところであるとは云え、その破られた記録の内容というのに、なんとなく心を惹《ひ》くものがあったのは、当然であろう。その時一人の私服が入って来て、津多子の夫――押鐘医学博士が、来邸したという旨を告げた。押鐘博士には、かねて福岡に旅行中のところを、遺言書を開封させるため、唐突な召喚を命じたというほどだったので、ここでひとまず、伸子の訊問を中断しなければならなかった。そこで法水は、ダンネベルグ事件を後廻しにして、さっそく今日の動静について知ろうとした。
「ところで、既往の問題はのちほど改めて伺うとして……。今日の出来事当時に、貴女《あなた》は何故自分の不在証明《アリバイ》を立てることが出来なかったのです」
「何故って、それが二回続きの不運なんですわ」と伸子はちょっと愚痴を洩らして、悲しそうに云った。
「だって私は、あの当時|樹皮亭《ボルケン・ハウス》([#ここから割り注]本館の左端近くにあり[#ここで割り注終わり])の中にいたんですもの。あそこは美男桂《びなんかつら》の袖垣に囲まれていてどこからも見えはいたしませんわ。それに、クリヴォフ様が吊さ
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