オげに嘯《うそぶ》くと、法水はそれを窘《たしな》めるように見てから、伸子に云った。
「お構いなく続けて下さい。元来僕は、シェレイの妻君([#ここから割り注]メリー・ゴドウイン――詩人シェレイの後妻「フランケンシュタイン」の作者[#ここで割り注終わり])みたいな作品は大嫌いなのです。ああいう内臓の分泌を促すような感覚には、もう飽き飽きしているのですからね。ところで、その白羽のボアが揺《ゆら》いだのは? それが鐘鳴器《カリリヨン》室のどんな場面で、貴女に風を送りましたね」
「実際を申しますと、その蛾は遂々《とうとう》、蝙蝠の餌食《えじき》になってしまったのでございます。何故なら、私にあの難行をお命じになったのが、クリヴォフ様なんでございますものね。――それも、独りで三十櫓楼船《ブチントーロ》を漕げって」と瞬間、冷たい憤怒が伸子の面を掠《かす》めたけれども、それはすぐに、跡方もなく消え失せてしまった。そして続けた。
「だって、いつもならレヴェズ様がお弾きになるあの重い鐘鳴器《カリリヨン》を、女の私に、しかも三回ずつ繰り返せよと仰言《おっしゃ》ったのです。ですから、最初弾いた経文歌《モテット》の中頃になると、もう手も足も萎《な》えきってしまって、視界がしだいに朦朧となってまいりました。その症状を、久我さんは微弱な狂妄――と仰言います。病理的な情熱の破船状態だと云います。その時は、必ず極端に倫理的なものが、まるで軍馬のように耳を※[#「奇+攴」、第4水準2−13−65]《そばだ》てながら身を起してくる――と申されます。しかもそれが、最高浄福の瞬間だそうですけども、けっして倫理的《エーティッシュ》ではある代りに道徳的《モラリッシュ》ではなく、そこにまた、殺人の衝動を否《いな》むことは出来ぬ――とあの方は仰言いました。ああ、これでも、貴方がお考えになるような、詩的な告白なのでございましょうか」と熊城に冷たい蔑視を送ってから、当時の記憶を引き出した。
「で多分、こういう現象の一部に当るのでしょうか、自分では何を弾いているのか無我夢中のくせに、寒風が私の顔を、斑《まだら》に吹き過ぎて行くことだけは、妙に明瞭《はっきり》と知ることが出来ましたものね。云わば、冷痛とでもいう感覚でしたでしょう。けれども、絶えずそれが、明滅を繰り返しては刺激を休めなかったので、ようやく経文歌《モテット》の三回目を終えることが出来ました。それから、手を休めている間も同じことでございます。階下《した》の礼拝堂から湧き起ってくる鎮魂楽《レキエム》の音《ね》が、セロ・ヴィオラと低い絃《げん》の方から消えはじめていって、しだいに耳元から遠ざかって行くのでしたが……、かと思うと、それがまた引き返して来て、今度は室内一杯に、磅※[#「石+(蒲/寸)」、第3水準1−89−18]《ほうはく》と押し拡がってしまうのでした。しかし、その律動的《リズミカル》な、まるで正確なメトロノームでも聴くような繰り返しが、しだいに疲労の苦痛を薄らげてまいりました。そして、非常に緩慢ではございましたけれども、徐々《だんだん》と私を、快い睡気の中へ陥し込んでいったのです。ですから、曲が終って、私の手足が再び動きはじめてからも、私の耳には、鐘《チャペル》の音《ね》は聴えず、絶えずあの音《おん》を持たない、快い律動《リズム》だけが響いてくるのでした。ところが、その時でございます。突然私の顔の右側に、打《ぶ》ち衝《あた》ってきたものがありました。すると、その部分に※[#「火+欣」、第3水準1−87−48]衝《きんしょう》が起って、かっと燃え上ったように熱っぽく感じました。けれども、その刹那、身体が右の方へ捻《ねじ》れていって、それなり、何もかも判らなくなってしまったのです。その瞬間でございましたわ――私が、刳《く》り込みの天井に蛾を見たのは。しかし、今朝がた行って見ますと、その蛾はいつのまにか見えなくなっていて、ちょうどその場所には、蝙蝠が素知らぬ気な顔でぶら下っているだけでした」
伸子の陳述が終ると同時に、三人の視線が期せずして、打衝《ぶつか》った。しかもそれには、名状の出来ぬ困惑の色が現われていた。と云うのは、伸子に発作の原因を作らせたと目される、鐘鳴器《カリルロン》の演奏を命じた人物と云うのが、誰あろう、つい先頃皮肉な逆転を演じたところの、クリヴォフ夫人だったからだ。のみならず、伸子の云うがごとくに、はたして右の方へ倒れたとすれば、当然廻転椅子に現われた疑問が、さらに深められるものと云わねばならない。熊城は、狡猾《ずる》そうに眼を細めながら訊ねた。
「そうなって、貴女の右側から襲ったものがあるということになると、ちょうどそこには、階段を上って突き当りの扉《ドア》がありましたっけね。とにかく、くだらん自己犠
前へ
次へ
全175ページ中108ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
小栗 虫太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング