る。しかし、その中には妙に小児《こども》っぽい示威があるように思われて、そこに、絶望から※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]《もが》き上ろうとする、凄惨な努力が、透し見えるのだった。云い終ると、伸子の全身を硬張《こわば》らせていた靱帯《じんたい》が急に弛緩《しかん》したように見え、その顔にグッタリとした疲労の色が現われた。そこへ、法水は和やかな声で訊ねた。
「いや、そういう喪服なら、きっとすぐに必要でなくなりますよ。もし貴女《あなた》が鐘鳴器《カリルロン》室で見た人物の名が云えるのでしたら」
「すると、それは……誰のことなんでしょうか」と伸子は素知らぬ気な顔で、鸚鵡《おうむ》返しに問い返した。しかし、その後の様子は、不審《ふしん》怪訝《けげん》なぞというよりも、何か潜在している――恐怖めいた意識に唆《そそ》られているようだった。けれども、気早な熊城はもはや凝《じ》っとしてはいられなくなったと見えて、さっそく彼女が朦朧状態中に認《したた》めた、自署の件《くだり》([#ここから割り注]グッテンベルガー事件に先例のある潜在意識的署名[#ここで割り注終わり])を持ち出した。そして、それを手短に語り終えると開き直って、厳しく伸子の開口を迫るのだった。
「いいですかな。僕等が訊きたいのは、僅《た》ったそれだけです。どんなに貴女を、犯人に決定したくなくも、つまるところは、結論が逆転しない限りやむを得ません。つまり、要点はその二つだけで、それ以外の多くを訊ねる必要はないのです。これこそ、貴女にとれば一生浮沈の瀬戸際でしょう。重大な警告と云う意味を忘れんように……」と沈痛な顔で、まず熊城が急迫気味に駄目を押すと、その後を引き取って、検事が諭すような声で云った。
「勿論ああいう場合には、どんなに先天的な虚妄者《うそつき》でも、除外する訳にはゆきません。それでさえ、精神的には完全な健康になってしまうのが、つまりあの瞬間にあるのですからね。サア、そのX《エッキス》の実数を云って下さい。降矢木旗太郎……たしかに。いや、いったいそれは誰のことなんです?」
「降矢木……サア」と幽かに呟《つぶや》いただけで、伸子の顔がみるみる蒼白になっていった。それは、魂の底で相打っているものでもあるかのような、見るも無残な苦闘だった。しかし、五、六度|生唾《なまつば》を嚥《の》み下しているうちに、サッと智的なものが閃《ひらめ》いたかと思うと、伸子は高い顫《ふる》えを帯びた声で云った。「ああ、あの方[#「あの方」に傍点]に御用がおありなのでしょうか。それでしたら、鍵盤《キイ》のある刳《く》り込みの天井には、冬眠している蝙蝠《こうもり》がぶら下っておりました。また、大きな白い蛾が、まだ一、二匹生き残っていたのも知っておりますわ。ですから、冬眠動物の応光性《トロピズム》さえ御承知でいらっしゃいますのなら……。そうして光さえお向けになれば、あの動物どもはその方へ顔を向けて、何もかも喋《しゃべ》ってくれるでしょうからね。それとも、この事件の公式どおりに、それが算哲様だった――とでも申し上げましょうか」
伸子は、毅然《きぜん》たる決意を明らかにした。彼女は自身の運命を犠牲にしてまでも、或る一事に緘黙《かんもく》を守ろうとするらしい。
しかし、云い終ると何故であろうか、まるで恐ろしい言葉でも待ち設けているように、堅くなってしまった。恐らく、彼女自身でさえも、嘲侮の限りを尽している自分の言葉には、思わず耳を覆いたいような衝動に駆られたことであろう。熊城は唇をグイと噛み締めて、憎々しげに相手を見据えていたが、その時法水の眼に怪しい光が現われて、腕を組んだままズシンと卓上に置いた。そして、いかにも彼らしい奇問を放った。
「ああ、算哲……。あの凶兆の鋤《すき》――スペードの王様《キング》をですか」
「いいえ、算哲様なら、ハートの王様《キング》でございますわ」と伸子は反射的にそう云った後で、一つ大きな溜息をした。
「なるほど、ハートなら、愛撫と信頼でしょうが」と瞬間法水の眼が過敏そうに瞬《またた》いたが、「ところで、その告げ口をするという蝙蝠《こうもり》ですが、いったいそれは、どっちの端にいたのですか」
「それが、鍵盤《キイ》の中央から見ますと、ちょうどその真上でございましたわ」と伸子は躊《ため》らわずに、自制のある調子で答えた。
「しかし、その側《かたわら》には、好物の蛾がいたのです。けれどもその蛾が、あくまで沈黙を守っている限りは、よもや残忍な蝙蝠だって、むだに傷つけようとはいたすまいと思いますわ。ところが、その寓喩《アレゴリー》は、実際とは反対なのでございました」
「いや、そういう童話めいた夢ならば、改めてゆっくりと見てもらうことにしよう――今度は監房の中でだ」と熊城が毒々
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