ノ伸子だけが、残された一粒の希望になってしまったからだ。しかも、かつて鐘鳴器《カリルロン》室で彼女が演じたところのものは、とうてい曖昧|模糊《もこ》とした人間の表情ではない。いかなる畸矯変則をもってしても律しようのない……換言すれば、殺人犯人の生具的表現を最も強烈に表象している、一個の演劇用仮面《マスク》に相違ないのである。それゆえ、ここでもし法水《のりみず》が、伸子の秤量《しょうりょう》を機会に転回を計ることが出来なかった暁《あかつき》には、恐らくあの暗黒凶悪な緞帳《カーテン》が、事件の終幕には犯人の手によって下されるであろう。否そうなることは、この事件の犯罪現象を一貫している※[#「虫+礼のつくり」、第3水準1−91−50]《みずち》のような怪物、――すなわち事件の推移経過が明白にそれへ向って集束されてゆこうとしても、法水でさえどうにも防ぎようのない、あの大魔霊《デモーネン・ガイスト》の超自然力を確認するにほかならないのである。それゆえ、伸子の蒼白な顔が扉《ドア》の蔭から現われると同時に、室内の空気が異常に引き緊ってきた。法水にさえ、抑えようとしても果せない、妙に神経的な衝動が込み上げてくる。そして、全身を冷たい爪で、掻き上げられるような焦慮《いらだたしさ》を、その時はどうすることも出来ないのであった。
伸子は年齢《としのころ》二十三、四であろうけれども、どちらかと云えば弾力的な肥り方で、顔と云い体躯《たいく》の線と云い、その輪廓がフランドル派の女人を髣髴《ほうふつ》とさせる。けれども、その顔は日本人には稀《めず》らしいくらい細刻的な陰影に富んでいて、それが如実に彼女の内面的な深さを物語るように思われた。のみならず、最も印象的なのは、そのクリクリした葡萄の果《み》みたいな双の瞳である。そこからは智的な熱情が、まるで羚羊《かもしか》のような敏《すば》しこさで迸出《はしりだ》してくるのだけれども、それにはまた、彼女の精神世界の中にうずくまっているらしい、異様に病的な光もあった。総体として彼女には、黒死館人特有の、妙に暗い粘液質的なところはなかったのである。しかし、三日にわたって絶望と闘い凄惨な苦悩を続けたためか、伸子は見る影もなく憔悴《しょうすい》している。すでに歩む気力も尽き果てたように思われ、その喘《あえ》ぐような激しい呼吸が――鎖骨や咽喉の軟骨が急《せわ》し気に上下しているのさえ、三人の座所から明瞭《はっきり》と見える。しかし、フラフラ歩んで来て座に着くと、彼女は昂奮を鎮めるかのように両眼を閉じ、双《もろ》の腕で胸を固く締めつけていて、しばらく凝然《じいっ》と動かなかった。それに、黒地の対《つい》へ大きく浮き出している茅萱《ちがや》模様の尖《さき》が、まるで磔刑槍《はりつけやり》みたいな形で彼女の頸《くび》を取り囲んでいる。それなので、偶然に作られてしまったその異様な構図からは、妙に中世めいた問罪的な雰囲気が醸《かも》し出されてくる。そして、樫《かし》と角石とで包まれた沈鬱な死の室の周囲《ぐるり》へ、それが渦のように揺ぎ拡がってゆくのだった。やがて、法水の唇が微かに動きかけて沈黙を破ろうとしたとき、あるいは先手を打とうとしたのだろうか、突如伸子の両眼がパチリと見開かれた。そして、彼女の口からいきなり衝いて出たものがあった。
「私、告白いたしますわ。いかにも鐘鳴器《カリリヨン》室で気を失いました際には、鎧通しを握っておりました。また、易介《えきすけ》さんが殺された前後にも、今日のクリヴォフ様の出来事当時にだって、奇妙なことに、私だけには不在証明《アリバイ》と云うものが恵まれておりませんでした。いいえ、私は最初から、この事件の終点におかれているんですわ。ですから、ここで幾ら莫迦《ばか》問答を続けたところで、結局この局状《シチュエーション》には批評の余地はございませんでしょう」と伸子は何度も逼《つか》えながら、大きく呼吸《いき》を吸い込んでから、「それに、私には固有の精神|障礙《しょうがい》があって、時折ヒステリーの発作が起ります。ねえそうでございましょう。これは久我鎮子《くがしずこ》さんから伺ったことですけども、犯罪精神病理学者のクラフトエーヴィングは、ニイチェの言葉を引いて、天才の悖徳《はいとく》掠奪性を強調しております。中世紀全体を通じて最も高い人間性の特徴とみなされていたのは、幻覚を起す――云い換えれば、深い精神的|擾乱《じょうらん》の能力を持つにあり――ですと。ホホホホホ、これでございますものね。すべてがそろいもそろって、それも、明瞭過ぎるくらいに明瞭なんですわ、もう私には、自分が犯人でないと主張するのが厭《いや》になりました」
それは、どこか彼女のものでないような声音《こわね》だった。――ほとんど自棄的な態度で
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