cな事には、この時もまた、伸子の動静だけが不明で、誰一人として、彼女の姿を目撃した者がないのだった。以上の調査を私服から聴き終ると、法水はひどく複雑な表情を泛《うか》べ、実にこの日三度目の奇説を吐いた。
「ねえ支倉君、僕にはレヴェズの壮烈な姿が、絶えず執拗《しつ》っこくつき纏《まと》っているのだがね。あの男の心理は、実に錯雑をきわめているのだ。あるいは誰かを庇《かば》おうとしての騎士的精神かもしれないし、またああいう深刻な精神葛藤が、すでにもう、あの男に狂人の境界を跨《また》がせているのかも判らない。だが、なにより濃厚なのは、あの男が死体運搬車に乗っている姿なんだよ」となんら変哲もないレヴェズの言動に異様な解釈を述べ、それから噴泉の群像に眼がゆくと、彼は慌《あわ》てて出しかけた莨《たばこ》を引っ込めた。「では、これから驚駭噴泉《ウォーター・サープライズ》を調べることにしよう。恐らく犯人であると云う意味でなしに、今日の事件の主役は、きっとレヴェズに違いないのだ」
 その驚駭噴泉《ウォーター・サープライズ》の頂上は、黄銅製のパルナス群像になっていて、水盤の四方に踏み石があり、それに足をかけると、像の頭上からそれぞれの側に、四条の水が高く放出される仕掛になっていた。そして、その放水が、約十秒ほどの間継続することも判明した。ところが、その踏み石の上には、霜溶けの泥が明瞭な靴跡となって残っていて、それによるとレヴェズ氏は、その一つ一つを複雑な経路で辿《たど》って行って、しかもそれぞれに、ただの一度しか踏んでいないことが明らかになった。すなわち、最初は本館の方から歩んで来て、一番正面の一つを踏み、それから、次にその向う側を、そして三度目には右側のを、最後には、左側の一つを踏んで終っている。しかし、その複雑きわまる行動の意味が、いったい那辺にあるのか、さすがに法水でさえ、皆目その時は見当がつかなかった。
 それから、本館に戻ると、一昨日訊問室に当てた例の開けずの間、すなわちダンネベルグ夫人が死体となっていた室《へや》で、まず最初の喚問者として伸子を喚《よ》ぶことになった。そして、彼女が来るまでの間に、どこからとなく法水の神経に、後にはそれと頷《うなず》かせた、異様な予感が触れてきたと云うのは、数十年|以来《このかた》この室に君臨していて、幾度か鎖され開かれ、また、何度か流血の惨事を目撃してきた――あの寝台の方に惹《ひ》かれていったのだった。彼は帷幕《カーテン》の外から顔を差し入れただけで、思わずハッとして立ち竦《すく》んでしまった。前回には些《いささ》かも覚えなかったところの、不思議な衝動に襲われたからだ。死体が一つなくなっただけで、帷幕《カーテン》で区切られた一劃には、異様な生気が発動している。あるいは、死体がなくなって構図が変ったので、純粋の角と角、線と線との交錯を眺めるために起った、心理上の影響であるかもしれない。
 けれども、それとはどこか異なった感じで、同じ冷たさにしても、生きた魚の皮膚に触れるといったような、なんとなくこの一劃の空気から、微かな動悸《どうき》でも聴えてきそうであって、まあ云わば、生体組織《オーガニズム》を操縦している、不思議の力があるのを浸々と感ずるのだった。しかし、検事と熊城に入られてしまうと、法水の幻想は跡方もなく飛び散ってしまった。そして、やはり構図のせいかなと思うのだった。法水はこの時ほど、寝台を仔細に眺めたことはなかった。
 天蓋を支えている四本の柱の上には、松毬《まつかさ》形をした頂花《たてばな》が冠彫《かしらぼり》になっていて、その下から全部にかけては、物凄いほど克明な刀の跡を見せた、十五世紀ヴェネチアの三十櫓楼船《ブチントーロ》が浮彫になっていた。そして、その舳《みよし》の中央には、首のない「ブランデンブルクの荒鷲」が、極風に逆らって翼を拡げているのだった。そういう、一見|史文《しぶん》模様めいた奇妙な配合《とりあわせ》が、この桃花木《マホガニー》の寝台を飾ってる構図だったのである。そして、ようやく法水が、その断頸鷲の浮彫から顔を離した時だった。静かに把手《ノッブ》の廻転する音がして、喚《よ》ばれた紙谷伸子が入って来た。
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  第六篇 算哲埋葬の夜
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    一、あの|渡り鳥《ワンダー・フォーゲル》……二つに割れた虹

 紙谷伸子《かみたにのぶこ》の登場――それが、この事件の超頂点《ウルトラ・クライマックス》だった。と同時に、妖気|※[#「示+駸のつくり」、第4水準2−82−70]気《しんき》の世界と人間の限界とを区切っている、最後の一線でもあったのだ。何故なら事件中の人物は、クリヴォフ夫人を最終にしてことごとく篩《ふる》い尽されてしまい、つい
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