=[ル・フレテット》――と、レナウの『|秋の心《ヘルプスト・ゲフュール》』のことを訊ねましたっけね。ハハハハハ、御記憶ですか。しかし、僕は一言注意しておきますが、この次こそ、貴方が殺される番になりますよ」となんとなく予言めいた、またそこに、法水独特の反語逆説が潜んでいるようにも思われる、妙に薄気味悪い言葉を吐いた。すると、その瞬間レヴェズ氏に、衝動的な苦悶の色が泛《うか》び上ったが、ゴクリと唾《つば》を嚥《の》み込むと、顔色を旧《もと》どおりに恢復して云い返した。
「まったく、それと同様なんです。得体の判らない接近というものは、明らさまな脅迫よりも、いっそう恐怖的なものですからな、しかし、儂《わし》どもに寝室の扉に閂《かんぬき》を下させたり、またそれを、要塞のように固めさせるに至った原因というのは、けっして昨今の話ではないのですよ。実は、あの晩の神意審問会と同様の出来事が、以前にも一度繰り返されたことがあったのです」とレヴェズ氏は顔を引き緊め、つい寸秒前に行われた、法水との黙劇を忘れたかのように、語りはじめたものがあった。
「それは、先主が歿《みまか》られてから間もなくのことで、去年の五月の初めでしたが、その夜は、ハイドンのト短調|四重奏《クワルテット》曲の練習を、礼拝堂でやることになりました。ところが、曲が進行しているうちに、突然グレーテさんが、何か小声で叫んだかと思うと、右手の弓《キュー》が床の上に落ち、左手もしだいにダラリと垂れていって、開いてある扉《ドア》の方を凝然《じっ》と瞶《みつ》めているのでした。勿論、儂《わし》ども三人は、それを知って演奏を中止いたしました。すると、グレーテさんは、左手に持った提琴《ヴァイオリン》を逆さに扉《ドア》の方へ突き付けて、津多子さん、そこにいたのは誰です?――と叫んだのです。案の定|扉《ドア》の外からは、津多子さんの姿が現われましたけども、あの方はいっこう解せぬような面持で、いいえ誰もいない――と云うのでした。ところが、それを聴くと、グレーテさんは何と云ったことでしょうか。声を荒らげて、儂《わし》どもの血が一時に凍りつくような言葉を叫ばれたのです。確かそこには算哲様が[#「確かそこには算哲様が」に傍点]――と」と云った時に、総身を恐怖のために竦《すく》めて、セレナ夫人はレヴェズの二の腕をギュッと掴んだ。その肩口を、レヴェズは労《いた》わるように抱きかかえて、あたかも秘密の深さを知らぬ者を嘲笑するような眼差を、法水に向けた。
「勿論|儂《わし》は、その疑題《クエスチョネーア》に対する解答が、神意審問会のあの出来事となって現われたと信じておるのです。いや、元来|心霊主義《スピリチュアリズム》には縁遠い方でしてな。そう云った神秘玄怪な暗合というものにも、必ずや教程公式があるに相違ない――と。いいですかな法水さん、貴方が探し求めておられる|薔薇の騎士《ローゼン・カヴァリエル》は、その二回にわたる不思議とも、異様に符合しておるのですぞ。それは云うまでもない、津多子さんにほかならんのです」
 その間法水は、黙然と床を瞶《みつ》めていたが、まるで、ある出来事の可能性を予期してかのような、弱々しい嘆息を洩らした。そして、「とにかく、今後貴方の身辺には、特に厳重な護衛をおつけしましょう。それから、また貴方に、『|秋の心《ヘルプスト・ゲフュール》』をお訊ねしたことを、改めてお詫びしておきます」と再び、他《はた》ではとうてい解しきれぬような奇言を吐いてから、彼は問題を事務的な方面に転じた。
「ところで、今日の出来事当時は、どこにお出かけになりましたか」
「ハイ、私は自分の室《へや》で、ジョオコンダ([#ここから割り注]聖バーナード犬の名[#ここで割り注終わり])の掃除をいたしておりました」とセレナ夫人は躊《ひる》まずに答えてから、レヴェズの方を向いて「それに、確かオットカールさん([#ここから割り注]レヴェズの名[#ここで割り注終わり])は、驚駭噴泉《ウォーター・サープライズ》の側にいらっしゃいましたわね」
 その時レヴェズ氏の顔には、ただならぬ狼狽《ろうばい》の影が差したけれども、「いやガリバルダさん、鏃《やじり》と矢筈《やはず》を反対にしたら、たぶん、弩の絃《いと》が切れてしまうでしょうからな」といかにも上ずった、不自然な笑声で紛らせてしまったのである。そうして二人は、なおも煩々《くどくど》しく、津多子の行動について苛酷な批判を述べてから、室を出て行った。二人の姿が扉《ドア》の向うに消えると、それと入れ違いに、旗太郎以下四人の不在証明《アリバイ》が私服によってもたらされた。それによると、旗太郎と久我鎮子は図書室に、すでに恢復していた押鐘津多子は、当時階下の広間《サロン》にいたことが証明されたけれど、不思
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