ネ[#「悲痛な」は底本では「非痛な」]語気を吐いた。
「ああ、僕はシュライエルマッヘルじゃないがね。熱を傾けて苦を求めたよ、また、血みどろの身振り狂言なんだ。それも、人もあろうに、クリヴォフが狙撃されたんだよ[#「クリヴォフが狙撃されたんだよ」に傍点]」と陽差が翳《かげ》って薄暗くなった大火之図の上に、法水はいつまでも空洞《うつろ》な視線を注いでいた。あたかもその様子は、彼が築き上げた壮大な知識の塔が、脆くも崩壊しつつある惨状を眺めているかのようであった。法水の歴史的退軍――これこそ、捜査史上空前ともいう大壮観《スペクタクル》ではないか。

    二、宙に浮んで……殺さるべし

 法水がクリヴォフ夫人に猶太人虐殺《ポグロム》を試みて、しきりと十二宮《ゾーディアック》秘密記法の解読をしている頃だった。一方私服の楯で囲まれている黒死館では、その隙をどう潜ったものか、世にもまたとない幻術的な惨劇が起ったのである。それが二時四十分の出来事で、当の被害者クリヴォフ夫人は、ちょうど前庭に面した本館の中央――すなわち尖塔のまっすぐ下に当る二階の武具室の中で、折からの午後の陽差を満身に浴びながら、窓際の石卓に倚《よ》り読書していた。すると、突然背後から何者かの手で、装飾品の一つであったフィンランダー式|火術弩《かじゅつど》が発射されたのだが、運よくその箭《や》は、彼女の頭部をわずかに掠《かす》めて毛髪を縫った。そして、その強猛な直進力は、瞬間彼女を宙に吊り、そのまま直前の鎧扉《よろいど》に命中したので、その機《はず》みを喰って、クリヴォフ夫人は鞠《まり》のように窓外に投げ出されたのだった。しかし、その刺叉形《さすまたがた》をした鬼箭《おにや》が、確《し》かと棧の間に喰い入っていたので、また後尾の矢筈《やはず》に絡みついている彼女の頭髪も、これまた執拗に離れなかったので、夫人の身体《からだ》はその一本の矢に釣られて宙吊りとなり、しかも、虚空の中でキリキリ独楽《こま》のように廻転を始めたのであった。まさに、ダンネベルグ夫人――易介と続いた、血みどろの童話風景である。あの底知れぬ妖術のような魔力を駆使して、犯人はこの日にもまた、クリヴォフ夫人を操人形《マリオネット》のように弄《もてあそ》んだ。そして、相変らず五彩|絢爛《けんらん》とした、超理法超官能の神話劇を打ったのであった。恐らくその光景は、クリヴォフ夫人の赤毛が陽に煽《あお》られて、それがクルクル廻転するところは、さながら焔《ほのお》の独楽《こま》のようにも思えたであろうし、また、怒《いか》ったゴルゴン([#ここから割り注]メドウーサら三姉妹[#ここで割り注終わり])の頭髪を髣髴《ほうふつ》とさせるほどに、凄惨酷烈をきわめたものに違いなかった。そして、その時クリヴォフ夫人が、もし無我夢中の裡に窓框《まどわく》に片手を掛けなかったなら、あるいは、そのうちに矢筈が萎《しな》び鏃《やじり》が抜けるかして、結局直下三丈の地上で粉砕されたかもしれなかったのである。しかし、悲鳴を聴きつけられて、クリヴォフ夫人はただちに引き上げられたけれども、頭髪はほとんど無残にも引き抜かれていて、おまけに毛根からの出血で、昏倒している彼女の顔は、一面に赭丹《しゃたん》を流したよう素地を見ることが出来なかったそうであった。
 その惨事が発生してから、わずか三十五分の後に、法水一行は黒死館に到着していた。館に入ると、彼はすぐにクリヴォフ夫人の病床を見舞った。すると、折よく医師の手で意識が恢復されていて、上述の事情を、杜絶《とぎ》れながらも聴くことが出来た。しかし、それ以上の真相は、混沌の彼方で犯人が握っていた。その当時彼女は、窓を正面に椅子の背を扉《ドア》の方へ向けていたので、自然背後にいた人物の姿は見ることが出来なかったと云う始末だし、また、その室《へや》に入る左右の廊下には、それぞれ一人|宛《ずつ》の私服が曲り角の所で頑張っていたのだったけれども、誰しもそこを出入した人物はなかったと云うのだった。言葉を換えて云うと、その室はほとんど密閉された函室《はこむろ》に等しく、したがって、私服の眼から外れて、いやしくも形体を具えた生物なら、出入は絶対不可能であるに相違なかったのである。法水は聴取を終ると、クリヴォフ夫人の病室を出て、さっそく問題の武具室を点検した。
 その室は前面から見ると、正確に本館の真中央《まんまんなか》に当り、二条の張出間《アプス》に挾まれていて、二つある硝子窓はそれだけが他とは異なり、十八世紀末期の二段上下式になっている。また、室内も北方ゴート風の玄武岩で畳み上げた積石造《つみいしづくり》で、周囲は一抱えもある角石で築き上げられ、それが、暗く粗暴な蒙昧《もうまい》な、いかにも重々しげなテオドリック朝あたり
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