ュと後を続けた。「ところが、常人と異常神経の所有者とでは、末梢神経に現われる心理表出が、全然転倒している場合がある。例えば、ヒステリーの発作中そのまま放任しておく場合には、患者の手足は、勝手|気儘《きまま》な方向に動いているけれども、いったんそのどこかに注意を向けさせると、その部分の運動がピタリと停止してしまうのだ。つまり、クリヴォフ夫人に現われたものは、その反対の場合であって、たぶんあの女は、心の戦《おのの》きを挙動に現わすまいと努めていたことだろう。ところが、僕が彼夢みぬ[#「彼夢みぬ」に傍点]――と云った一言から、偶然その緊張が解けたので、そこで抑圧されていたものが一時に放出され、注意を自分の掌《てのひら》に向けるだけの余裕が出来たのだ。そうなって始めて、右掌の無名指が不安定を訴えだしたことは云うまでもない。そうして、あの解しきれない顫動《せんどう》が起されたという訳なんだよ。ねえ支倉君、闇でなくては見えぬ樺の森を、あの女は指一本で、問わず語らずのうちに告白してしまったのだ。その、(樺の森――彼夢みぬ)とかけて下降していく曲線の中に、なんと遺憾なく、クリヴォフ夫人の心像が描き尽されていることだろう。支倉君、いつぞや君は、詩文の問答をツルヴェール趣味の唱《うた》合戦と云ったことがあったっけね。ところが、どうしてそれどころか、あれは心理学者ミュンスターベルヒに、いやハーバードの実験心理学教室に対する駁論《ばくろん》なんだよ。ああいう大袈裟《おおげさ》な電気計器や記録計などを持ち出したところで、恐らく冷血性の犯罪者には、些細《ささい》の効果もあるまい。まして、生理学者ウエバーのように自企的に心動を止め、フォンタナのように虹彩を自由自在に収縮できるような人物に打衝《ぶつか》った日には、あの器械的心理試験が、いったいどうなってしまうんだろう。しかし僕は、指一本動かさせただけで、また詩文の字句一つで発掘を行い、それから、詩句で虚妄《うそ》を作らせまでして、犯人の心像を曝《あば》き出したのだ」
「なに、詩文で虚妄《うそ》を※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」と熊城がグイと唾を嚥《の》んで聴き咎《とが》めると、法水は微かに肩を聳《そび》やかせて、莨《たばこ》の灰を落した。彼の闡明《せんめい》は、もうこの惨劇が終ったのではないかと思われたほどに、十分なものだった。法水はまずその前提として、猶太人《ジュウ》特有のものに、自己防衛的な虚言癖のあるのを指摘した。最初に、ミッシネー・トラー経典([#ここから割り注]十四巻の猶太教基本教典[#ここで割り注終わり])中にある、イスラエル王サウルの娘ミカル(註)の故事――から始めて、しだいに現代に下り、猶太人街《ゲット》内に組織されている長老《カガール》組織([#ここから割り注]同種族犯罪者庇護のために、証拠堙滅相互扶助的虚言をもってする長老組織[#ここで割り注終わり])にまで及んだ。そして、終りに法水は、それを民族的性癖であると断定したのであった。ところが、続いてその虚言癖に、風精《ジルフス》との密接な交渉が曝露されたのである。

[#ここから4字下げ]
(註)イスラエル王サウルの娘ミカルは、父が夫ダビデを殺そうとしているのを知り、計を用いて遁《のが》れせしめ、その事露顕するや、ミカルは偽り答えて云う。「ダビデが、もし吾を遁さざれば汝を殺さんと云いしによって、吾、恐れて彼を遁したるなり」――と。サウル娘の罪を許せり。
[#ここで字下げ終わり]

「そういう訳で、猶太人《ジュウ》は、それに一種宗教的な許容を認めている。つまり、自己を防衛するに必要な虚言だけは、許されねばならない――とね。しかし、無論僕は、それだけでクリヴォフを律しようとするのじゃない。僕はあくまで、統計上の数字というものを軽蔑する。だがしかしだ。あの女は、一場の架空談を造り上げて、実際見もしなかった人物が、寝室に侵入したと云った。いかにも、それだけは事実なんだよ」
「ああ、あれが虚妄《うそ》だとは」検事は眉を跳ね上げて叫んだ。
「すると君は、その事をどこの宗教会議で知ったのだね」
「どうして、そんな散文的なもんか」と法水は力を罩《こ》めて云い返した。「ところで、法心理学者のシュテルンに、『|供述の心理学《プシヒョロギー・デル・アウスザーゲ》』という著述がある。ところが、その中であのブレスラウ大学の先生が、予審判事にこういう警語を発しているのだ。――訊問中の用語に注意せよ。何故なら、優秀な智能的犯罪者と云えるほどの者は、即座に相手が述べる言葉のうちの、個々の単語を綜合して、一場の虚妄談を作り上げる術《すべ》に巧みなればなり――と。だから、あの時僕は、その分子的な聯想と結合力とを、反対に利用しようとしたのだよ。そして、試みにレヴェズに向って
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