tに溶け込んでゆく。勿論、それによって固有の発作が起されるのだ。だから熊城君、僕に極言させてもらえるなら、あの時伸子に三回の繰り返しを命じた、その人物が明らかになれば、とりもなおさず犯人に指摘されるのだよ」
「だが、君の理論はけっして深奥じゃない」熊城はここぞと厳しく突っ込んだ。「だいたいその時伸子の瞼を下させたのは? 全身を蝋質撓拗性《フレキシビリタス・ツェレア》みたいな、蝋人形のようにしてしまった道程が説明されていない」
[#猫の前肢という結び方の図(fig1317_27.png)入る]
法水は大風な微笑を泛《うか》べて、相手の独創力の欠乏を憫《あわれ》んでいるかのごとく見えたが、すぐ卓上の紙片に、上図を描いて説明を始めた。
「これが、|猫の前肢《キャッツ・ポー・ノット》と云う、猶太《ユダヤ》人犯罪者特有の結び方なんだよ。そこで熊城君、この結び方一つに、廻転椅子に矛盾を現わした筋識喪失――あの蝋質撓拗性《フレキシビリタス・ツェレア》[#ルビの「フレキシビリタス・ツェレア」は底本では「フレキシリビタス・ツェレア」]に似た状態を作り出したものがあったのだ。見たとおり下方の紐を引っ張ると、結び目がしだいに下っていく。けれども、結び目に挾まっている物体が外れると、紐はピインと解《ほど》けて一本になってしまうのだ。だから犯人は、予《あらかじ》めその鍵《キイ》の使用数と最初結び付ける高さを測定しておいてから、その鍵と鐘を打つ打棒とを繋いでいる紐の上方に、鎧通しの束を結び付けておいたのだ。そうすると、演奏が進行するにつれて、鎧通しを廻転させながら、結び目がしだいに下の方へ降っていく。そして、伸子が朦朧状態で演奏している――ちょうど讃詠《アンセム》の二回目あたりで、彼女の眼前を、まるで水芸《みずげい》の紙撚《こより》水みたいに、刃《やいば》の光が閃《ひらめ》き消えながら、横になり縦になりして、鎧通しが下降していったのだ。つまり、明滅する光で垂直に瞼を撫で下す。それを眩惑操作《モノイデジーレン》と云って、催眠中の婦人に閉目させる、リエジョアの手法なんだよ。だから、瞼が閉じられると同時に、蝋質撓拗性《フレキシビリタス・ツェレア》[#ルビの「フレキシビリタス・ツェレア」は底本では「フレキシリビタス・ツェレア」]そっくりに筋識を喪った身体が、たちまち重心を失って、その場去らず塑像《そぞう》のように背後に倒れたのだ。そして、その機《はず》みに、鍵《キイ》と紐を裏側から蹴ったので、鎧通しが結び目から飛び出して床の上に落ちたのだよ。勿論伸子は、発作が鎮まると同時に、深い昏睡に落ちていったのだがね」と検事の毒々しい軽蔑を見返したが、法水は突然《いきなり》悲痛な表情を泛《うか》べて、
「だがしかしだ。伸子はどうして、あの鎧通しを握ったのだろうか。また、あの奇矯変態の極致ともいう倍音演奏が、何故に起されたものだろうか。ああいう想像の限外には、まだ指一本さえ触れることが出来ないのだ」といったんは弱々しげな嘆息を発したけれども、その困憊《こんぱい》げな表情が三たび変って、終《つい》に彼は颯爽《さっそう》たる凱歌を上げた。「いや、僕は天狼星《シリウス》の視差《パララックス》を計算しているのだっけ。またδ《デルタ》もあればξ《クシイ》もある! それ等を、一点に帰納し綜合し去ることが出来ればいいのだ」
そこで、空気が異様に熱してきた。もはや解決に近いことは、永らく法水に接している二人にとると、それが感覚的にも触れてくるものらしい。熊城は不気味に眼を据え、顔を迫るように近づけて訊ねた。
「では、率直に黒死館の化物を指摘してもらおう。君が云う猶太人《ジュウ》というのは、いったい誰なんだね?」
「それが、軽騎兵ニコラス・ブラーエなんだ」と法水はまず意外な名を述べたが、「ところで、その男がグスタフス・アドルフスに近づいた端緒というのは、王がランデシュタット市に入城した時で、その際に猶太窟門《ジュイッシュ・ゲート》の側《かたわら》で雷鳴に逢い、乗馬が狂奔したのを取り鎮めたからなんだ。そこで支倉君、何よりブラーエの勇猛果敢な戦績を見てもらいたいんだが」と検事が弄《もてあそ》んでいたハートの「グスタフス・アドルフス」を取り上げて、リュッツェン役の終末に近い頁《ページ》を指し示した。と同時に、二人の顔に颯《さっ》と驚愕の色が閃《ひらめ》いた。検事はウーンと呻《うめ》き声を発して、思わず銜《くわ》えていた莨《たばこ》を取り落してしまった。
――戦闘は九時間に亙《わた》って継続し、瑞典《スウェーデン》軍の死傷は三千、聯盟軍《イムペリアリスツ》は七千を残して敗走せしも、夜の闇は追撃を阻み、その夜、傷兵どもは徹宵地に横たわりて眠る。払暁に降霜ありて、遁《のが》れ得ざる者は、ことごとく寒
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