Gスピノザは、彼を生地サントニアの荘園に送り還してしまったのだ。ところが、それから一、二ヶ月後に、エスピノザはこういうフォスコロの書翰《しょかん》を受取ったのだが、同封の紙片に描かれたマッツオラタ([#ここから割り注]中世伊太利でカーニバル季における最も獣的な刑罰[#ここで割り注終わり])の器械化を見て、思わず一驚を喫してしまった。
――セヴィリアの公刑所には、十字架と拷問《ごうもん》の刑具と相併立せり。されど、神もし地獄の陰火を点《とも》し、永遠限りなくそれを輝かさんと欲せんには、まず公刑所の建物より、回教《サラセン》式の丈高き拱格《アーチ》を逐《お》うにあらん。吾《われ》、サントニアに来りてより、昔ゴーティア人《びと》の残せし暗き古荘に棲む。実に、その荘は特種の性質を有せり。すなわちそれ自身がすでに、人間諸種の苦悩を熟慮したる思想を現わすものにして、吾《われ》そこにおいて種々の酷刑を結合しあるいは比較して、終《つい》にその術において完全なる技師となれり――と。
ねえ熊城君、こういう凄惨な独白《せりふ》は、そもそも何が語らせたのだろうか。どうしてフォスコロの嗜血癖が、残忍な拷問刑具の整列裡では起らずに、美しいビスカヨ湾の自然のなかで生れたのだろうか。そのセヴィリア宗教裁判所とサントニア荘との建築様式の差を、この事件でもけっして看過してはならんと、僕は断言したいのだよ」とそこで彼は激越な調子を収めた。そして、以上二つの例を黒死館の実際に符合させて、その様式の中に潜んでいる恐ろしい魔力を闡明《せんめい》しようと試みた。
「現に僕は、事実一度しか行かない、しかもあの暗澹《あんたん》たる天候の折でさえも、黒死館の建築様式に、様々常態ではない現象が現われるのに気がついているのだ。勿論、そういう感覚的錯覚には、とうてい捕捉し得ない不思議な力がある。つまり、それから絶えず解放されないことが、結局病理的個性を生むに至るのだよ。だから熊城君、いっそ僕は極言しよう。黒死館の人々は、恐らくその程度こそ違うだろうが、厳密な意味で心理的神経病者たらざるはない――と」
誰しも人間精神のどこかの隅々には、必ず軽重こそあれ、神経病的なものが潜んでいるに相違ない。それを剔抉《てっけつ》し犯罪現象の焦点面へ排列するところに、法水の捜査法は無比なものがあった。けれども、この場合、伸子のヒステリー性発作と猶太《ユダヤ》型の犯罪とは、とうてい一致し得べからざるほどに隔絶したものではないか。
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(しかるにワルドシュタインの左翼は、王の右翼よりも遙かに散開しいたれば、王ウイルヘルム侯に命じて戦列を整わしむ。その時、侯は再び過失を演じて、加農砲の使用を遅らしめたり)
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検事は、相変らず法水を鈍重ウイルヘルム侯に擬して、黙々たる皮肉を続けていたが、熊城はたまらなくなったように口を開いた。
「とにかく、ロスチャイルドでもローゼンフェルトでもいいから、その猶太《ユダヤ》人の顔というのを拝ませてもらおう。それに君は、伸子の発作を偶然の事故に帰してしまうつもりじゃないんだろうね」
「冗談じゃない。それなら伸子は、何故朝の讃詠《アンセム》をあの時繰り返して弾いたのだろう」と法水は語気を強めて反駁《はんばく》した。
「いいかね熊城君、あの女は、非常に体力を要する鐘鳴器《カリリヨン》で、経文歌《モテット》を三回繰り返して弾いたのだ。そうなると、モッソウの『疲労《ディ・エルミュドゥング》』を引き出さなくても、神経病発作や催眠誘示には、すこぶるつきの好条件になってしまう。そこに、あの女を朦朧《もうろう》状態に誘い込んだものがあったのだよ」
「ではなんという化物《ばけもの》だい。だいたい鐘楼の点鬼簿《てんきぼ》には、人間の亡者の名が、一人も記されていないのだからね」
「化物どころか、勿論人間でもない。それが、鐘鳴器《カリリヨン》の鍵盤なんだよ」法水はチカッと装飾音を聴かせて、そこでも二人の意表外に出た。「ところで、これは一つの錯視現象なんだが、例えば一枚の紙に短冊形の縦孔《たてあな》を開けて、その背後で円く切った紙を動かして見給え。その円が激しく動くにつれ、しだいと楕円に化してゆく、ちょうどそれと同じ現象が、上下二段の鍵盤《キイ》に現われたのだ。ところでここに、頻繁《ひんぱん》に使う下段の鍵《キイ》があったとしよう。そうすると、その絶えず上下する鍵《キイ》を、上段の動かない鍵の間から瞶《みつ》めていると、その下段の鍵《キイ》の両端が、上段の鍵の蔭に没していく方の側に歪んでいって、それが、しだいに細くなっていくように見えるのだ。つまり、そういう遠感的な錯視が起ると、それまで疲労によってやや朦朧《もうろう》としかけていた精神が、一途《いちず
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