Bこの発作は、突然意識を奪い患者の全身を硬直させ、それ自身の意志による随意運動をまったく不可能にする。しかし、他からの運動には全然無抵抗で、まるで、柔軟な蝋か護謨《ゴム》の人形のように、手足はその動かされた所の位置に、いつまでも停止している。それが、蝋質撓拗という興味ある病名を附された由縁である。
[#ここで字下げ終わり]
「蝋質撓拗症《フレキシビリタス・ツェレア》※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」それにはさしもの検事も、激しく卓子《テーブル》を揺《ゆす》って叫ばざるを得なくなった。「莫迦《ばか》な、君の詭弁も、度外《どはず》れると滑稽になる。法水君、あれは稀病中の稀病なんだぜ」
「勿論、文献だけの稀病には違いないがね」といったんは肯定したが、法水の声には、嘲弄するような響が罩《こ》もっていて、
「けれども、そういう稀《めず》らしい神経の排列を、仮りにもし、人為的に作れるとしたら、どうなんだい。ところで君は、筋識喪失というデュシェンヌが創った術語を知っているだろうか。ヒステリー患者の発作中に瞼を閉じさせると、ちょうど蝋質撓拗性《フレキシビリタス・ツェレア》そっくりで、全身に硬直状態が起るんだぜ。つまり、猶太人《ジュウ》特有の或る風習を除いたら、その病理的|曲芸《サーカス》を演じさせることが不可能だと云うのだ」と驚くべき断定を下した。
熊城はそれまで黙々と莨《たばこ》を喫《くゆ》らしていたが、不意に顔を上げて、
「ああ、伸子とヒステリーか……。なるほど、君の透視眼も相当なものさ。ただし問題を、癲狂院でなしに他の方へ転じてもらおう」と彼に似げない味のある言葉を吐いた。それに法水は、思いもつかなかった病理解剖を黒死館の建物に試みて、あくまでその可能性を強調するのだった。
「オヤオヤ熊城君、僕の方こそ、この事件が黒死館で起った出来事だという事に、注意してもらいたいんだよ。だいたい犯罪と云うものは、動機からのみ発するものではない。ことに、智的殺人犯罪は、歪んだ内観から動かされる場合が多いのだ。無論そうなると、一種|淫虐性《ザディスムス》の形式だが……往々感情以外にも、何かの感覚的錯覚から解放されず、しかも、絶えず抑圧を続けられる場合に発する例《ため》しがあるのだ。ちょうど黒死館の城砦《じょうさい》めいた陰鬱な建物に、僕はそういう、非道徳的な――むしろ悪魔的な性能を、すこぶる豊富に認めることが出来るのだよ。ところで、その厳粛な顔をした悪戯者《いたずらもの》が、だいたいどういう具合に人間神経の排列を変形させてゆくものだろうか、ここにちょうど恰好な例があるのだがね」と、その奇矯な推論から、独断に見える衣を脱がせようとして、彼はまず例証を挙げた。「これは今世紀の初め、ゲッチンゲンに起った出来事なんだが、オット・ブレーメルという、いかにもウエストファリア人らしい鋭感的《センシブル》な少年が、同地にあるドミニク僧団の附属学園に入学したのだ。ところが、そのボネーベ式の拱貫《きょうかん》が低く垂れ、暗く圧し迫るような建物が、たちまち破瓜期の脆弱《ぜいじゃく》な神経を蝕《むしば》んでいったのだ。最初は、建物の内外に光度の差がはなはだしいことが、彼に時として、偶然にしてはあまりに不思議な残像を見せる場合があった。そして、あげくに幻聴を聴くほどの症状になったと云うのは、彼の室の窓外が鉄道線路であって、そこを通過する列車の響が、絶えず Resend《レゼンド》 Blehmel《ブレーメル》([#ここから割り注]気狂いブレーメルの意[#ここで割り注終わり])と繰り返すように聴かれたからだったのだ。しかし父親《てておや》が息子の病状に驚いて自宅へ引き取ったので、そこでブレーメルの精神状態が、からくも崩壊を免れたのだ。それがまた、奇蹟に等しいのだよ。寄宿舎を出てしまうと同時に、彼には幻視も幻聴も現われなくなり、間もなく健《すこ》やかな青春を取り戻すことが出来たのだからね。ねえ熊城君、君は刑法家じゃないのだから、あるいは知らないかもしれないが、刑務所の建築様式によっては、拘禁性精神病が続出するのも、また、それが皆無なのもあるそうだよ」
法水は、そこで新しい莨《たばこ》を取り出して一息入れたが、依然知識の高塔を去らずに、続いて、よりも痛烈な引例に入った。
「時代は十六世紀の中葉フェリペ二世朝だが、この一つは、淫虐的《ザディスティッシュ》な嗜血癖の、むしろ異例的標本とでも云うものなんだ。西班牙《スペイン》セヴィリアの宗教裁判所に、糺問《きゅうもん》官補のフォスコロという若い僧《キャノン》がいたのだ。ところが、彼の糺問法がすこぶる鈍いばかりでなく、万聖節《ばんせいせつ》に行われる異端焚殺行列《アウト・デ・フェ》にも恐怖を覚えるという始末なので、やむなく宗教裁判副長の
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