眼隈と、それから張ち切れそうな小麦色の地肌とが、素晴らしく魅力的だった。葡萄色のアフタヌーンを着て、自分の方から故算哲博士の秘書|紙谷伸子《かみたにのぶこ》と名乗って挨拶したが、その美しい声音《こわね》に引きかえ、顔は恐怖に充ち土器色に変っていた。彼女が出て行ってしまうと、法水は黙々と室内を歩きはじめた。その室《へや》は広々とした割合に薄暗く、おまけに調度が少ないので、ガランとして淋しかった。床の中央には、大魚の腹中にある約拿《ヨナ》を図案化したコプト織の敷物が敷かれ、その部分の床は、色大理石と櫨《はぜ》の木片を交互に組んだ車輪模様の切嵌《モザイク》。そこを挾んで、両辺の床から壁にかけ胡桃《くるみ》と樫《かし》の切組みになっていて、その所々に象眼を鏤《ちりば》められ、渋い中世風の色沢が放たれていた。そして、高い天井からは、木質も判らぬほどに時代の汚斑が黒く滲み出ていて、その辺から鬼気とでも云いたい陰惨な空気が、静かに澱《よど》み下ってくるのだった。扉口《とぐち》は今入ったのが一つしかなく、左手には、横庭に開いた二段鎧窓が二つ、右手の壁には、降矢木家の紋章を中央に刻み込んである大きな壁炉《かべろ》が、数十個の石材で畳み上げられてあった。正面には、黒い天鵞絨《びろうど》の帷幕《とばり》が鉛のように重く垂れ、なお扉から煖炉に寄った方の壁側には、三尺ほどの台上に、裸体の傴僂《せむし》と有名な立法者《スクライブ》(埃及《エジプト》彫像)の跏像《かぞう》とが背中合せをしていて、窓際寄りの一劃は高い衝立《ついたて》で仕切られ、その内側に、長椅子と二、三脚の椅子|卓子《テーブル》が置かれてあった。隅の方へ行って人群から遠ざかると、古くさい黴《かび》の匂いがプーンと鼻孔を衝《つ》いてくる。煖炉棚《マントルピース》の上には埃が五|分《ぶ》ほども積っていて、帷幕に触れると、咽《むせ》っぽい微粉が天鵞絨の織目から飛び出してきて、それが銀色に輝き、飛沫《しぶき》のように降り下ってくるのだった。一見して、この室《へや》が永年の間使われていないことが判った。やがて、法水は帷幕を掻き分けて内部を覗き込んだが、その瞬間あらゆる表情が静止してしまって、これも背後から、反射的に彼の肩を掴んだ検事の手があったのも知らず、またそれから波打つような顫動《せんどう》が伝わってくるのも感ぜずに、ひたすら耳が鳴り顔が火のように熾《ほて》って、彼の眼前にある驚くべきもの以外の世界が、すうっとどこかへ飛び去って行くかのように思われた。
 見よ! そこに横たわっているダンネベルグ夫人の死体からは、聖《きよ》らかな栄光が燦然《さんぜん》と放たれているのだ。ちょうど光の霧に包まれたように、表面から一|寸《すん》ばかりの空間に、澄んだ青白い光が流れ、それが全身をしっくりと包んで、陰闇の中から朦朧《もうろう》と浮き出させている。その光には、冷たい清冽な敬虔な気品があって、また、それに暈《ぼっ》とした乳白《ミルク》色の濁りがあるところは、奥底知れない神性の啓示でもあろうか。醜い死面の陰影は、それがために端正な相に軟げられ、実に何とも云えない静穏なムードが、全身を覆うているのだ。その夢幻的な、荘厳なものの中からは、天使の吹く喇叭《らっぱ》の音が聴えてくるかもしれない。今にも、聖鐘の殷々《いんいん》たる響が轟きはじめ、その神々しい光が、今度は金線と化して放射されるのではないかと思われてくると、――ああ、ダンネベルグ夫人はその童貞を讃えられ、最後の恍惚《こうこつ》境において、聖女として迎えられたのであろうか――と、知らず知らず洩れ出てくる嘆声を、果てはどうすることも出来なくなってしまうのだった。しかし、同時にその光は、そこに立ち列《なら》んでいる、阿呆のような三つの顔も照していた。法水もようやく吾《われ》にかえって調査を始めたが、鎧窓を開くと、その光は薄らいでほとんど見えなかった。死体の全身はコチコチに硬直していて、すでに死後十時間は十分経過しているものと思われたが、さすが法水は動ぜずに、あくまで科学的批判を忘れなかった。彼は口腔内にも光があるのを確かめてから、死体を俯《うつ》向けて、背に現われている鮮紅色の屍斑を目がけ、グサリと小刀《ナイフ》の刃を入れた。そして、死体をやや斜めにすると、ドロリと重たげに流れ出した血液で、たちまち屍光に暈《ぼっ》と赤らんだ壁が作られ、それがまるで、割れた霧のように二つに隔てられてゆき、その隙間に、ノタリノタリと血が蜿《のた》くってゆく影が印《しる》されていった。検事も熊城も、とうていこの凄惨な光景を直視することは出来なかった。
「血液には光はない」と法水は死体から手を離すと、憮然《ぶぜん》として呟《つぶや》いた。「今のところでは、なんと云っても奇蹟と云うよりほかに
前へ 次へ
全175ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小栗 虫太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング