召使《バトラー》を憚《はばか》りながら、法水は小声で検事の問いに答えた。「いずれ、僕に確信がついたら話すことにするが、とにかく現在《いま》のところでは、それで解釈する材料が何一つないのだからね。単にこれだけのことしか云えないと思うよ。先刻《さっき》階段を上って来る時に、警察自動車らしいエンジンの爆音が玄関の方でしたじゃないか。するとその時、あの召使《バトラー》は、そのけたたましい音響に当然消されねばならない、ある微かな音を聴くことが出来たのだ。いいかね、支倉君、普通の状態ではとうてい聴くことの出来ない音をだよ」
そういうはなはだしく矛盾した現象を、法水はいかにして知ることが出来たのだろうか? しかし、彼はそれに附け加えて、そうは云うものの、あの召使《バトラー》には毫末《ごうまつ》の嫌疑もない――といって、その姓名さえも聞こうとはしないのだから、当然結論の見当が茫漠となってしまって、この一事は、彼が提出した謎となって残されてしまった。
階段を上りきった正面には、廊下を置いて、岩乗な防塞を施した一つの室《へや》があった。鉄柵扉の後方に数層の石段があって、その奥には、金庫扉《きんこと》らしい黒漆《こくしつ》がキラキラ光っている。しかし、その室が古代時計室だということを知ると、収蔵品の驚くべき価値を知る法水には、一見|莫迦気《ばかげ》て見える蒐集家の神経を頷《うなず》くことが出来た。廊下はそこを基点に左右へ伸びていた。一劃ごとに扉が附いているので、その間は隧道《トンネル》のような暗さで、昼間でも龕《がん》の電燈が点《とも》っている。左右の壁面には、泥焼《テルラコッタ》の朱線が彩っているのみで、それが唯一の装飾だった。やがて、右手にとった突当りを左折し、それから、今来た廊下の向う側に出ると、法水の横手には短い拱廊《そでろうか》が現われ、その列柱の蔭に並んでいるのが、和式の具足類だった。拱廊の入口は、大階段室の円《まる》天井の下にある円廊に開かれていて、その突当りには、新しい廊下が見えた。入口の左右にある六弁形の壁燈を見やりながら、法水が拱廊の中に入ろうとした時、何を見たのか愕然《ぎょっ》としたように立ち止った。
「ここにもある」と云って、左側の据具足《すえぐそく》(鎧櫃《よろいびつ》の上に据えたもの)の一列のうちで、一番手前にあるものを指差した。その黒毛三枚鹿|角立《つのだち》の兜《かぶと》を頂いた緋縅錣《ひおどししころ》[#ルビの「ひおどししころ」は底本では「ひおどしころ」]の鎧に、何の奇異《ふしぎ》があるのであろうか。検事はなかば呆れ顔に反問した。
「兜が取り換えられているんだ」と法水は事務的な口調で、「向う側にあるのは全部|吊具足《つりぐそく》(宙吊りにしたもの)だが、二番目の鞣革《なめしがわ》胴の安鎧に載っているのは、錣《しころ》を見れば判るだろう。あれは、位置の高い若武者が冠る獅子噛台星前立脇細鍬《ししがみだいほしまえだてわきほそぐわ》という兜なんだ。また、こっちの方は、黒毛の鹿角立という猛悪なものが、優雅な緋縅《ひおどし》の上に載っている。ねえ支倉君、すべて不調和なものには、邪《よこし》まな意志が潜んでいるとか云うぜ」と云ってから召使《バトラー》にこの事を確かめると、さすがに驚嘆の色を泛《うか》べて、
「ハイ、さようでございます。昨夕までは仰言《おっしゃ》ったとおりでございましたが」と躊躇《ちゅうちょ》せずに答えた。
それから、左右に幾つとなく並んでいる具足の間を通り抜けて、向うの廊下に出ると、そこは袋廊下の行き詰りになっていて、左は、本館の横手にある旋廻階段のテラスに出る扉。右へ数えて五つ目が現場の室《へや》だった。部厚な扉の両面には、古拙な野生的な構図で、耶蘇《イエス》が佝僂《せむし》を癒やしている聖画が浮彫になっていた。その一重の奥に、グレーテ・ダンネベルグが死体となって横たわっているのだった。
扉が開くと、後向きになった二十三、四がらみの婦人を前に、捜査局長の熊城《くましろ》が苦りきって鉛筆の護謨《ゴム》を噛んでいた。二人の顔を見ると、遅着を咎《とが》めるように、眦《まなじり》を尖らせたが、
「法水君、仏様ならあの帷幕《とばり》の蔭だよ」といかにも無愛想に云い放って、その婦人に対する訊問も止めてしまった。しかし、法水の到着と同時に、早くも熊城が、自分の仕事を放棄してしまったのと云い、時折彼の表情の中に往来する、放心とでも云うような鈍い弛緩の影があるのを見ても、帷幕の蔭にある死体が、彼にどれほどの衝撃を与えたものか――さして想像に困難ではなかったのである。
法水は、まずそこにいる婦人に注目を向けた。愛くるしい二重|顎《あご》のついた丸顔で、たいして美人と云うほどではないが、円《つぶ》らな瞳と青磁に透いて見える
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