ス皮剥死刑の図」、右手の壁面には、ド・トリーの「一七二〇年マルセーユの黒死病《ペスト》」が、掲げられてあった。いずれも、縦七尺幅十尺以上に拡大摸写した複製画であって、何故かかる陰惨なもののみを選んだのか、その意図がすこぶる疑問に思われるのだった。しかし、そこで法水の眼が素早く飛びついたというのは「腑分図」の前方に正面を張って並んでいる、二基の中世甲冑武者だった。いずれも手に旌旗《せいき》の旆棒《はたぼう》を握っていて、尖頭から垂れている二様の綴織《ツルネー》が、画面の上方で密着していた。その右手のものは、クェーカー宗徒の服装をした英蘭土《イングランド》地主が所領地図を拡げ、手に図面用の英町尺《エーカーざし》を持っている構図であって、左手のものには、羅馬《ローマ》教会の弥撒《ミサ》が描かれてあった。その二つとも、上流家庭にはありきたりな、富貴と信仰の表徴《シムボル》にすぎないのであるから、恐らく法水は看過すると思いのほか、かえって召使《バトラー》を招き寄せて訊ねた。
「この甲冑武者は、いつもここにあるのかね」
「どういたしまして、昨夜からでございます。七時前には階段の両裾に置いてありましたものが、八時過ぎにはここまで飛び上っておりました。いったい、誰がいたしましたものか?」
「そうだろう。モンテスパン侯爵夫人のクラーニイ荘を見れば判る。階段の両裾に置くのが定法だからね」と法水はアッサリ頷《うなず》いて、それから検事に、「支倉君、試しに持ち上げて見給え。どうだね、割合軽いだろう。勿論実用になるものじゃないさ。甲冑も、十六世紀以来のものは全然装飾物なんだよ。それも、路易《ルイ》朝に入ると肉彫の技巧が繊細になって、厚みが要求され、終いには、着ては歩けないほどの重さになってしまったものだ。だから、重量から考えると、無論ドナテルロ以前、さあ、マッサグリアかサンソヴィノ辺りの作品かな」
「オヤオヤ、君はいつファイロ・ヴァンスになったのだね。一口で云えるだろう――抱えて上れぬほどの重量ではないって」と検事は痛烈な皮肉を浴びせてから、「しかし、この甲冑武者が、階下にあってはならなかったのか。それとも、階上に必要だったのだろうか?」
「無論、ここに必要だったのさ。とにかく、三つの画を見給え。疫病・刑罰・解剖だろう。それに、犯人がもう一つ加えたものがある――それが、殺人なんだよ」
「冗談じゃない」検事が思わず眼を瞠《みは》ると、法水もやや亢奮を交えた声でこう云った。
「とりもなおさず、これが今度の降矢木事件の象徴《シムボル》という訳さ。犯人はこの大旆《たいはい》を掲げて、陰微のうちに殺戮《さつりく》を宣言している。あるいは、僕等に対する、挑戦の意志かもしれないよ。だいたい支倉君、二つの甲冑武者が、右のは右手に、左のは左手に旌旗の柄を握っているだろう。しかし、階段の裾にある時を考えると、右の方は左手に、左の方は右手に持って、構図から均斉を失わないのが定法じゃないか。そうすると、現在の形は、左右を入れ違えて置いたことになるだろう。つまり、左の方から云って、富貴の英町旗《エーカーばた》――信仰の弥撒旗《ミサばた》となっていたのが、逆になったのだから……そこに怖ろしい犯人の意志が現われてくるんだ」
「何が?」
「Mass(弥撒《ミサ》)と acre(英町《エーカー》)だよ。続けて読んで見給え。信仰と富貴が、Massacre《マッサカー》――虐殺に化けてしまうぜ」と法水は検事が唖然としたのを見て、「だが、恐らくそれだけの意味じゃあるまい。いずれこの甲冑武者の位置から、僕はもっと形に現われたものを発見《みつ》け出すつもりだよ」と云ってから、今度は召使《バトラー》に、「ところで、昨夜七時から八時までの間に、この甲冑武者について目撃したものはなかったかね」
「ございません。生憎《あいにく》とその一時間が、私どもの食事に当っておりますので」
それから法水は、甲冑武者を一基一基解体して、その周囲は、画図と画図との間にある龕形《がんけい》の壁灯から、旌旗の蔭になっている、「腑分図」の上方までも調べたけれど、いっこうに得るところはなかった。画面のその部分も背景のはずれ近くで、様々の色の縞が雑然と配列しているにすぎなかった。それから、階段廊を離れて、上層の階段を上って行ったが、その時何を思いついたのか、法水は突然|奇異《ふしぎ》な動作を始めた。彼は中途まで来たのを再び引き返して、もと来た大階段の頂辺《てっぺん》に立った。そして、衣嚢《かくし》から格子紙《セクション》の手帳を取り出して、階段の階数をかぞえ、それに何やら電光形《ジグザグ》めいた線を書き入れたらしい。さすがこれには、検事も引き返さずにはいられなかった。
「なあに、ちょっとした心理考察をやったまでの話さ」と階上の
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