ヘ、隣室の張出縁に異様な人影を目撃したと云う。けれども、列席者中には、誰一人として室を出たものはなかったのである。そして、その直下に当る地上には、人体形成の理法を無視した二条の靴跡が印され、その合流点に、これもいかなる用途に供されたものか皆目見当のつかない、写真乾板の破片が散在していた。以上四つの謎は時間的には近接していても、それぞれ隔絶した性質を持っていて、とうてい集束し得べくもない。
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七、ダンネベルグ事件[#「七、ダンネベルグ事件」は太字]
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屍光と降矢木の紋章を刻んだ創紋――。まさに超絶的眺望である。しかも法水は、創紋の作られた時間が僅々一、二分にすぎぬと云う。さらに彼の説として、その二つの現象を、〇・五の青酸加里(ほとんど毒殺を不可能に思わせる程度の薬量)を含んだ洋橙《オレンジ》が、被害者の口中に入り込むまでの道程に当てている。すなわち、不可能を可能とさせる意味の補強作用であり、その結果の発顕にほかならぬと推断している。しかし、彼の観察誤りなしとしても、それを証明し犯人を指摘することは、要するに神業ではないか。しかも、家族の動静には、一見の特記すべきものもなく、洋橙の出現した経路も全然不明である。
テレーズの弾条人形――。断末魔にダンネベルグ夫人は、この邪霊視されている算哲夫人の名を紙片にとどめた。そして、現場の敷物の下には、人形の足型が、扉を開いた水を踏んでまざまざと印されている。しかし、その人形には特種の鳴音装置があって、附添いの一人久我鎮子は、その鈴のような音を耳にしなかったと陳述しているのだ。勿論法水は、人形の置かれてあった室の状況に一抹《いちまつ》の疑念を残しているけれども、それは彼自身においても確実のものではなく、すなわち、否定と肯定との境は、その美しい顫音《せんおん》一筋に置かれてあると云っても過言ではない。
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八、黙示図の考察[#「八、黙示図の考察」は太字]
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法水がそれを特異体質図と推定しているのは、明察である。何故なら、自体の上下両端を挾まれている易介の図が、彼の死体現象にも現われているではないか。しかし、伸子の卒倒している形が、セレナ夫人のそれを髣髴《ほうふつ》とさせるのは、何故であろうか。また法水が、象形文字から推定して、黙示図に知られない半葉があるとするのは、仮令《たとい》論理的であるにしても、すこぶる実在性に乏しく、結局彼の狂気的産物と考えるほかにない。
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九、ファウストの五芒星呪文[#「九、ファウストの五芒星呪文」は太字](略[#「略」は太字])
十、川那部易介事件[#「十、川那部易介事件」は太字]
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法水の死因|闡明《せんめい》は、同時に甲冑を着せしめたところに、犯人の所在を指摘している。それを時間的に追及すると、伸子にのみ不在証明《アリバイ》がない。しかも伸子は、その咽喉《のど》を抉《えぐ》った鎧通《よろいどお》しを握って失神し、なお、奇蹟としか考えられない倍音が、経文歌《モテット》の最後の一節において発せられている。それ以外に疑問の焦点とでも云いたいのは、はたして犯人が、易介を共犯者として殺害したか否かであって、勿論容易な推断を許さぬことは云うまでもないのである。結局、その曲折紛糾奇異を超絶した状況から推しても、しだいに、伸子の失神を犯人の曲芸的演技とする点に綜合されてゆくけれども、しかし、公平な論断を下すなれば、依然として紙谷伸子は、ただ一人の、そして、最も疑われてよい人物であることは勿論である。
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十一、押鐘津多子が古代時計室に幽閉されていた事[#「十一、押鐘津多子が古代時計室に幽閉されていた事」は太字]
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これこそ、まさしく驚愕《きょうがく》中の驚愕である。しかも、法水が死体として推測したものが、解し難い防温を施されて昏睡していた。勿論、彼女が何故に、自宅を離れて実家に起居していたか――という、その点を追及する必要は云うまでもないが、しかし、犯人が津多子を殺害しなかった点に、法水は危惧《きぐ》の念を抱いて陥穽《かんせい》を予期している。けれども、易介が神意審問会の最中隣室の張出縁で目撃した人影と云うのは、絶対に津多子ではない。何故なら、当夜八時二十分に、真斎が古代時計室の文字盤を廻して、鉄扉を鎖したからである。
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十二、当夜零時半クリヴォフ夫人の室に闖入したと云われる人物は[#「十二、当夜零時半クリヴォフ夫人の室に闖入したと云われる人物は」は太字]?
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ここに易介の目撃談――宵に張出縁へ出現して、あのいかにも妖怪めいた不可視的人物が、夜半クリヴォフ夫人の室《へ
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