竅tにも姿を現わしたのだった。夫人の言によれば、それはまさしく男性であって、しかもあらゆる特徴が、身長こそ異にすれ旗太郎を指摘している。しかりとすれば、伸子が覚醒の瞬間に認《したた》めた自署に、降矢木という姓を冠せている。それを、グッテンベルガー事件に先例のある潜在意識と解釈すれば、伸子を倒したとする風精《ジルフェ》の正体には、最も旗太郎の姿が濃厚である。そして、その推定が、伸子の露出的な失神姿体と撞着するところに、この事件最大の難点が潜んでいるのではあるまいか。
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十三、動機に関する考察[#「十三、動機に関する考察」は太字]
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すべてが、遺産を繞《めぐ》る事情に尽きている。第一の要点は、四人の異国人の帰化入籍によって、旗太郎の白紙的相続が不可能になった事である。次に、旗太郎以外ただ一人の血縁が、すなわち押鐘津多子を除外している点に注目すべきであろう。したがって、旗太郎対三人の外人の間には、すでに回復し難い程度の疎隔を生じているけれども、何よりこの一つの大きな矛盾だけは、どうすることも出来ない。すなわち、動機を持つ者には、現象的に嫌疑とすべきものがなく、伸子のごとき犯人を髣髴とさせる者には、その反対に動機の寸影すら見出されないのである。
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読み終ると、法水はそれを卓上に拡げて、まずその第七条(屍光と創紋の件《くだり》)の上に指頭を落した。その頃には、欄間の小窓から入って来る陽差が、「倫敦《ロンドン》大火之図」の――ちょうどテムズ河の真上|附近《あたり》にまで上っていて、頭上の黒煙に物々しい生動を起しはじめた。それでなくても検事と熊城は、唇が割れ唾液が涸《かわ》いて、ただひたすらに、法水の持ち出した奇矯転倒の世界が、一つ大きな蜻蛉《とんぼ》がえりを打って、夢想の翼を落してしまう時機を夢見るのだった。そういう異様に殺気立った空気の中で、法水は新しい莨《たばこ》に火を点じ、徐《おもむ》ろに口を開いた。
「ところで、最初にあの不思議な屍光と創紋だが、問題は依然として、その循環論的な形式にあるのだ。あの洋橙《オレンジ》がどういう経路を経て、ダンネベルグ夫人の口の中に飛び込んでいったのか――その道程が判然《はっきり》しない限りは、依然実証的な説明は不可能だと思うね。けれども、その屍光と創紋の発生に似た犯罪上の迷信が、有名な『猶太《ユダヤ》人犯罪の解剖的証拠論(ゴルトフェルト著)』の中に記録されているのだ」とその一冊を書架から引き出したが、それには猶太的犯罪風習が、簡略な例註として記されているのみだった。
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一八一九年十月の或る夜、ボヘミア領ケーニヒグレーツ在の富裕な農夫が、寝台の上で心臓を貫かれ、その後に室内から発火して、死体とともに焼き捨てられたという惨事が起った。そして、それには通行者の証言があって、ちょうどその夜の十一時半に、わずかに隙いた窓掛《カーテン》の間から、被害者が十字を切っているのを目撃したと陳述する者が現われてきた。そうなると、兇行時刻が十一時半以後となって、最も深い動機を持っていると目されていた、猶太《ユダヤ》人の一製粉業者に、計らずも不在証明《アリバイ》が出来てしまった。したがって、事件はそれなり迷霧に鎖されてしまったのである。ところがその半年後になって、ようやくプラーグ市の補助憲兵デーニッケによって犯人の奸計が曝露され、やはり最初の嫌疑者である、猶太人の製粉業者が捕縛されるに至った。しかも、発覚の原因をなしたものは、ハムラビ経典の解釈から発している、猶太固有の犯罪風習にすぎなかった。すなわち、死体もしくは被害の個所を、周囲に蝋燭《ろうそく》を立てて照明すると、それで犯罪が、永久発覚しないという迷信が端緒だったのである。勿論その蝋燭が、火災の原因だったことは云うまでもないであろう。
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[#ボヘミア周辺地図の図(fig1317_25.png)入る]
ああ開幕当初の場面に、法水はなんと生彩に乏しい例証を持ち出したことであろうか。けれども、続いて彼が、それに私見を加えて解答を整えると、偶然その独創の中から、さしも循環論の一隅に破られんばかりの光が差しはじめた。
「ところで、あの一文だけでは、憲兵《ゲンダルム》デーニッケの推理経路がいっこうに不明だけれども、僕はそれに解析を試みたのだ。死体を囲んだと云われる蝋燭の数は、その実五本だったのだよ。しかも、死体に十字を切らせるためには、それで死体を囲まずに、削ぎ竹のように片側の蝋を削いだ丈の短い四本を周囲《まわり》に並べて、その中央に、全長の半ばほどの蝋を取り除いて長い芯だけにした一本を置き、それを囲ませなければならなかった。何故なら、風鶏計《かざみ》の四本
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