N」までも渉猟《しょうりょう》して、性別転換の深奥に潜んでいて犯罪動機に符合するもの[#「犯罪動機に符合するもの」に傍点]を、中欧|死神《アンカウ》口碑の中に見出そうとした。また、シェラッハウヘンの「シュワルツブルグ城」その他から、妖精の名称に関する語源学的な変転を知ろうとした。つまり、水精《ウンディヌス》と水魔《ニックス》との間に一致があれば、女神フリーヤー([#ここから割り注]すなわちニケーアあるいはニックスと一体で善悪二様の化身のあるヴォーダン神の妻[#ここで割り注終わり])の化身と云われる白夫人《ホワイト・レディ》伝説のなかに、異様な二重人格的意義[#「異様な二重人格的意義」に傍点]を発見できはしまいかと考えたからである。さらに、「Volksbuch《フォルクスブッフ》」やゴットフリート([#ここから割り注]フォン・シュトラスブルグ[#ここで割り注終わり])の神秘詩や、ハーゲンやハイステルバッハ、それから、ゲーテの「|ファウスト第一稿《ウル・ファウスト》」と第二稿、第三稿との比較も試みたけれども、結局その第一稿《ウル・ファウスト》には、第二稿以下には判然としていない地霊《エルデガイスト》([#ここから割り注]すなわち、ウンディネ・ジルフェ・サラマンダー・コボルトを眷族とする大自然の精霊[#ここで割り注終わり])が、壮大な哲学的な姿を出現させているのみであった。しかし、この五芒星呪文に関する法水の解説は、むしろ講演《レクチュア》に等しかった。それなので、ジリジリ緊迫の度を高めていた空気がしだいに緩んでいって、背中に陽をうけている二人の間には、ぽかぽかした雲のような眠気が流れはじめた。検事は皮肉な嘆息をして云った。
「とにかく、この一事だけは断っておこうよ――この席上が弾薬塔《プルヴェル・トゥルム》だということをね。とにかくそういう話は、いずれ薔薇園《ローゼン・ガルテン》でやってもらうことにしようじゃないか」
ところが、次の瞬間法水の顔にサッと光耀が閃《ひらめ》いていて、突如鉄鞭のように、凄じい唸《うな》りが惰気を一掃したのである。彼は、甘そうに莨《たばこ》を二、三度吸うと云った。
「冗談じゃないぜ、こんなに素晴らしい|魔王の衣裳《エルケーニッヒ・コスチュウム》が、弾薬塔《プルヴェル・トゥルム》や砲壁《バルバカン》の中にあってたまるもんか。支倉君、僕の魔法史的考察はついに徒労ではなかったのだ。散々《さんざん》ぱら悩まされた五芒星呪文の正体が、ものもあろうに、ルイ十三世朝|機密閣《ブラック・キャビネット》史の中から発見されたのだよ。いや言葉を換えて云おう。当時不即不離の態度だったけれども、新教徒の保護者グスタフス・アドルフス(瑞典《スウェーデン》王)と対峙していたのが、有名な僧正宰相リシュリュウだったのだ。実にこの事件の本体が、あの陰険きわまりない暗躍の中に尽されているのだよ。ところで支倉君、君は、リシュリュウ機密閣《ブラック・キャビネット》の内容を知っているかね。暗号解読家のフランソア・ヴィエトやロッシニョールは? 錬金魔法師兼暗殺者のオッチリーユは? つまり、問題はこの悪党僧正《ブラック・モンク》オッチリーユにあるのだが……ああ、なんという薄気味悪い一致だろうか。被害者の名も[#「被害者の名も」に傍点]、犯人の名も[#「犯人の名も」に傍点]、あの竜騎兵王を斃したリュッツェン役の戦歿者中に現われているのだがね[#「あの竜騎兵王を斃したリュッツェン役の戦歿者中に現われているのだがね」に傍点]」
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(註)一六三一年瑞典王グスタフス・アドルフスは、独逸《ドイツ》新教徒擁護のために、旧教聯盟とプロシァにおいて戦い、ライプチッヒ、レッヒを攻略し、ワルレンシュタイン軍とリュッツェンにて戦う。戦闘の結果は彼の勝利なりしも、戦後の陣中においてオッチリーユが糸を引いた一軽騎兵のために狙撃せられ、その暗殺者は、ザックス・ローエンベルグ侯のためその場去らずに射殺せらる。時に、一六三二年十一月十六日。
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瞬間検事と熊城は、自分ではどうにもならない眩惑の渦中に捲き込まれてしまった。犯人の名――それはすなわち、この事件の緞帳《カーテン》が下されるのを意味する。しかし、古今東西の犯罪捜査史をあまねく渉猟したところで、とうてい史実によって犯人が指摘され、事件の解決が下されたなどという神話めいた例《ため》しが、従来《これまで》にわずかそれらしい一つでもあったであろうか。それであるからして、二人は駭《おどろ》き呆れ惑い、ことに検事は、猛烈な非難の色を泛《うか》べて、実行不可能の世界に没頭してゆく法水を、厳然と極めつけるのだった。
「ああまた、君の病的精神狂乱かね。とにかく、洒落《しゃれ》はやめにしてもらお
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