――最初に降矢木家の給仕長|川那部易介《かわなべえきすけ》の死を発見した、その前後の顛末《てんまつ》を概述しておこうと思う。すなわち、午後二時三十分|拱廊《そでろうか》の吊具足の中で、正式に甲冑を着した姿で窒息し、死後咽喉部に、二条の※[#「凵」のような形(fig1317_08.png)、235−2]形をした切創をうけ、絶命しているのを発見された。明白に死体の諸徴候は、死後二時間以内である事を証明しているが、その窒息方法は緩慢に加わっていったものらしく、経路も全然不明である。しかも同じ傭人の一人は、一時やや過ぎた頃に、被害者が高熱を発しているのを知り、同時に脈動のあった事も確かめたと云うのみならず、さらに、死体発見を去る僅々《きんきん》三十分以前の正二時には、被害者の呼吸を耳にしたと云う――実に奇怪きわまる事実を陳述したのである。よって、上述の事実に基づき、ここに私見を明らかにしたいと思う。ところで、最初に原因不明の窒息については、それを器械的胸腺死《メカニシェル・ティムストット》――と云うよりも、胸腺に或る器械的な圧迫を外部から加えたものだと主張する、すなわち川那部易介は、成年に達しても依然発育した胸腺を有する、一種の特異体質者に相違ないのである。しかしてその方法は、頸輪《くびわ》で頸動脈を強く緊縛したために脳貧血を起し、そのまま軽度の朦朧状態に陥ったのと、鎧《よろい》を横向きに着させたために、胸板の才鎚環《さいづちかん》で強く鎖骨上部が圧迫され、その圧力が、左無名静脈に加わったのが主因であろう。したがって、それに注入する胸腺静脈に鬱血をきたし、さらに、それが胸腺にも及んで鬱血肥大を起したので、当然気管を狭搾《きょうさく》し、やや長時間にわたる漸増的な窒息の結果、死に達《いた》らしめたものであると思う。しかしながら、解剖所見の発表を見るに、それには胸腺についてなんら記されているところはない。けれども、そうして不問に附せられているとは云い条、それ等の事実は、不可思議なる被害者の呼吸と重大なる因果関係を有するものである。さらに、その要点に言及すれば、何故に鏘々《そうそう》たる法医学者達が、二つの切創《きりきず》がともに中以上の血管では動脈を避け、静脈のみを胸腔にかけて抉《えぐ》っているのに気付かぬのであろうか。そこに、人間生理の大原則を顛覆させた、犯人の詭計《きけい》が潜んでいるのは勿論のことである。ところで、※[#「凵」のような形(fig1317_08.png)、236−2]形に抉らねばならなかった切創の目的と云うのは、ほかでもない。肥大した胸腺を切断して収縮せしめたばかりではなくて、死後動脈収縮([#ここから割り注]死後ただちに静脈を切断しても、出血しはしないが、ややしばらく後には、動脈の収縮によって、喞筒状に血液を静脈に送り、流血せしむる。[#ここで割り注終わり])によって流出した血液を胸腔内に充して、肺臓を圧迫し残気を吐き出さしめたと信ずるのである([#ここから割り注]死後残気の説については、ワグナー、マクドウガル等の実験で、約二十立方インチと計算されている[#ここで割り注終わり])。次に、死後脈動及び高熱については、絞首――廻転――墜落と続く日本刑死記録においても、相当の文献があるのみならず、ハルトマンの名著「生体埋葬《ベリード・アライヴ》」一冊だけでも、有名なテラ・ベルゲンの奇蹟([#ここから割り注]心臓附近のマッサージによって、心音を起し、高熱を発せりと云うファレルスレーベンの婦人[#ここで割り注終わり])や匈牙利《ハンガリー》アスヴァニの絞刑死体([#ここから割り注]十五分間廻転するがままに放置したる後引き下してみると、その後二十分も脈動と高熱が続いたと云う一八一五年ビルバウアー教授の発表[#ここで割り注終わり])が挙げられているように、窒息死後、廻転するかして死体に運動が続けられる場合は[#「廻転するかして死体に運動が続けられる場合は」に傍点]、高熱を発し脈動を起す例が必ずしも皆無ではないのである。まさしく易介においても、絶命後具足の廻転が[#「絶命後具足の廻転が」に傍点]、死体発見の一因として証明されているではないか[#「死体発見の一因として証明されているではないか」に傍点]。よって、上述したところを綜合すれば、易介の死は依然午後一時前後であって、彼がいかにして甲冑を着したかという点にも、北条流吊具足早着之法などの陣中心得は、無論この場合問題ではない。とうてい他人の力を藉《か》りなければ、非力病弱の易介にはなし得ないと推断されるのである。しかし、今回の発表が、ただ単に死因の推定にのみ止まっていて、なんら事件の開展に資するところのないのは、捜査関係者として心から遺憾の意を表したいと思う。
法水の朗読が終
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