ツも消えたので、階段廊に残っている光と云えば、左手のジェラール・ダヴィッド作「シサムネス皮剥死刑之図」の横から発して、「腑分図《ふわけのず》」を水平に撫でている一つのみになってしまった。が、その一燈に当る開閉器《スイッチ》は、階段の下にあるのだった。すると、それまで現われていた渋い定着が失われて、「腑分図」の全面には、眼の眩《くら》むような激しい眩耀《ハレーション》が現われた。さらに、最後の一つが捻《ひね》られて頭上の灯が消えると、法水はポンと手を叩いて、
「これでいいのだ。やはり、僕の推測どおりだったよ」
 ところが、それからしばらくの間、前方の画中を血眼《ちまなこ》になって探し求めていたけれども、三人の眼には、眩耀《ハレーション》以外の何ものも映らなかった。
「いったいどこに何があるんだ」と床を蹴って、熊城は荒々しく怫然《ふつぜん》と叫んだ。が、その時なにげなしに、真斎が後方の鋼鉄扉を振り向くと、そこには熊城の肩を、思わずも掴ませたものがあった。
「アッ、テレーズだ!」
 それは、まさしく魔法ではあるまいかと疑われたほど、不可思議奇態をきわめた現象であった。前方の画面が眩《まば》ゆいばかりの眩耀《ハレーション》で覆われているにもかかわらず、その上方の部分が映っている後方の鋼鉄扉には、はたしてどこから映ったものか、くっきりと確かな線で、しかも典麗な若い女の顔が現われているのだった。さらにいっそう薄気味悪いことには、擬《まが》うかたなくそれが、黒死館で邪霊と云われるテレーズ・シニヨレだったのである。法水は側《はた》の驚駭には関《かま》わず、その妖しい幻の生因を闡明《せんめい》した。
「判ったでしょう田郷さん、混乱した色彩があの距離まで来ると、始めて統一を現わすのですよ。しかし、その点描法《ポアンチリズム》の理論と云うのは、この場合単に、分裂した色彩を綜合する距離を示したのみのことです。無論その色彩だけでは、朦朧《もうろう》としたものがこの漆扉《うるしど》へ映るにすぎないでしょう。実はその基礎理論の上に、さらに数層の技巧が必要なのです。と云うのは、ほかでもないのですが、今世紀の初めに黴毒菌《スピロヘーター》染色法として、シャウディンとホフマンが案出した『暗視野照輝法』なのですよ。元来|黴毒菌《スピロヘーター》は無色透明の菌なので、そのまま普通の透視法を用いたのでは、顕微鏡下で実体を見ることは出来ません。それで、一案として顕微鏡の下に黒い背景《バック》を置き、光源を変えて水平から光線を送るようにしたのですが、その結果始めて、透明の菌だけから反射されてくる光線を見ることが出来たのでした。つまりこの場合は、左横の『シサムネス皮剥死刑之図』の脇から発して、画面を水平に撫でている光線が、それに当るのですよ。すると勿論、色彩から光度《ヘリヒカイト》の方に、本質が移ってしまいます。ですから、黄や黄緑のような比較的光度の高い色や、対比現象で固有のもの以上の光度を得ている色彩は、恐らく白光に近い度合で輝くでしょうし、またそれ以下のものは段階をなして、しだいに暗さを増してゆくに違いないのです。その光度の差が、この黒鏡《ブラックミラー》に映るといっそう決定的になってしまうのですが、一方実際問題として、膠質《こうしつ》の絵具では全体にわたって眩耀《ハレーション》が起らねばなりません。しかし、色調を奪って、その眩耀《ハレーション》を吸収してしまうばかりでなく、それを黒と白の単色画《モノクローム》に、判然と区分してしまうものが、実にこの漆扉《うるしど》――すなわち黒鏡《ブラックミラー》なのでした。ですから、やや近い色でも、最も光度の高いものに対比されると、幾分暗さを増すに違いないのですから、そこにテレーズの顔が、ああいう確かな線で、くっきりと描き出された原因があるのですよ。ねえ田郷さん、貴方は史家ホルクロフトや、古書蒐集家ジョン・ピンカートンなどの著述をお読みになったでしょうが、かつて魔法博士デイやグラハムが、愚民を惑わした黒鏡魔法《ブラック・ミラー・マジック》も、底を割れば、たったこれだけの本体にすぎないのです。さて、三つの開閉器《スイッチ》が捻《ひね》られて、この一帯が暗黒になると、その時、何故に、テレーズの像が現われなければならなかったのでしょう」
 そこで法水はちょっと一息入れて莨《たばこ》に火を点けたが、再びこつこつ歩き廻りながら云いはじめた。
「それが、破邪顕正の眼なのです。たぶん、算哲博士は世界的の蒐集品を保護するために、文字盤を鉄函《てつばこ》の中に入れただけでは不安だったのでしょう。それがために、こういうすこぶる芝居げたっぷりな装置を、秘《こっ》そり設けて置いたのですよ。何故なら、考えてみて下さい。いま点滅した三つの灯は、いつも点け放しな
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