_鐘を報ずる仕掛になっていた。法水が横腹にある観音開きの扉を開くと、上部には廻転琴《オルゴール》装置があって、その下が時計の機械室だった。しかし、その時扉の裏側に、はしなくも異様な細字の篆刻《てんこく》を発見したのである。すなわち、その右側の扉には……
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――天正十四年五月十九日 (羅馬《ローマ》暦|天主《デウス》誕生以来一五八六年)西班牙《エスパニア》王フェリペ二世より梯状琴《クラヴィ・チェムバロ》とともにこれをうく。
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 また、左手の扉にも、次の文字が刻まれているのだった。
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――天正十五年十一月二十七日 (羅馬暦|天主《デウス》誕生以来一五八七年)。ゴアの耶蘇会《ジェスイット》聖《セント》パウロ会堂において、聖《サン》フランシスコ・シャヴィエル上人の腸丸《ちょうがん》をうけ、それをこの遺物筐《シリケきょう》に収めて、童子の片腕となす。
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 それはまさしく、耶蘇会《ジェスイット》殉教史が滴《したた》らせた、鮮血の詩の一つであったろう。しかし、後段に至ると、そのシャヴィエル上人の腸丸が、重要な転回を勤めることになるのであるが、その時はただ、法水が悠久|磅※[#「石+(蒲/寸)」、第3水準1−89−18]《ほうはく》たるものに打たれたのみで、まるで巨大な掌《てのひら》にグイと握り竦《すく》められたかのような、一種名状の出来ぬ圧迫感を覚えたのであった。そして、しばらくその篆刻《てんこく》文を瞶《みつ》めていたが、やがて、
「ああ、そうでしたね。確か上川島《サンシアンとう》([#ここから割り注]広東省珠江の河口附近[#ここで割り注終わり])で死んだシャヴィエル上人は、美しい屍蝋《しろう》になっていたのでした。なるほど、その腸丸と遺物筐《シリケきょう》とが、童子人形の右腕になっているのですか」と低く夢見るような声で呟いたが、突然調子を変えて、真斎に訊ねた。
「ところで田郷さん、見掛けたところ埃がありませんけど、この時計室はいつ頃掃除したのです?」
「ちょうど昨日でした。一週に一回することになっておりますので」
 そうして、古代時計室を出ると、真斎は何より先に、彼を無惨な敗北に突き落したところの疑念を解かねばならなかった。法水は、真斎の問いに味のない微笑を泛《うか》べて、
「そうすると貴方は、デイやグラハムの黒鏡魔法《ブラック・ミラー・マジック》を御存じでしょうか」とひとまず念を押してから、烟《けむり》を吐いて語りはじめた。
「先刻《さっき》も云ったとおり、その解語《キイ》と云うのが、階段の両裾にあった二基の中世甲冑武者なんです。勿論装飾用のもので、たいした重量ではありませんが、あれは、御承知のように、ちょうど七時前後――折柄傭人達の食事時間を狙って、一足飛びに階段廊まで飛び上ってしまったのです。それに、双方とも長い旌旗《せいき》を持っているのですが、僕は最初、それを旌旗の入れ違いから推断して、犯人の殺人宣言と解釈したのです。しかし、ちょっと神経に触れたものがあったので、ひとまず二旒《にりゅう》の旌旗と、その後方にあるガブリエル・マックスの『腑分図』とを見比べて見ました。勿論画中の二人の人物には、津多子夫人の在所《ありか》を指摘するものはなかったのですが、その時ふと、二旒の旌旗が画面のはるか上方を覆うているのに気がついたのです。そこに、ダマスクスへの道を指し示している、里程標があったのですよ。つまり、その辺一帯の、一見|絵刷毛《ブラッシュ》を叩き付けたような、様々な色があるいは線をなし塊状をなしていて――色彩の雑群を作っている所が、すなわちそれだったのです。ところで、点描法《ポアンチリズム》の理論を御存じでしょうか。色と色を混ぜる代りに、原色の細かい線や点を交互に列べて、それをある一定の距離を隔てて眺めさせると、始めて観者の視覚の中で、その色彩分解が綜合されるのを云うのですよ。勿論、それより些《わず》かでも前後すれば、たちまち統一が破れて、画面は名状すべからざる混乱に陥ってしまうのです。つまりそれが、ルーアン本寺の門を描いたモネエの手法なのですが、それをいっそう法式化したばかりでなく、さらに理論的に一段階進めたものと云うのが、あの画中に隠されてあったのです」と法水はそこまで云うと、鋼鉄扉を閉じさせて、「では、一つ実験してみますかな――あの混乱した雑色の中に何が隠されているのか? 最初に熊城君、その壁にある三つの開閉器《スイッチ》を捻《ひね》ってくれ給え」
 さっそく熊城が法水の云うとおりにすると、最初に「腑分図」の上方にある灯が消え、続いて、右手のド・トリー作「一七二〇年|馬耳塞《マルセーユ》の黒死病《ペスト》」の上方から、右斜めに落ちている一
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