やりながら、
「あれはオリガさんが、後半よほど過ぎてから一時演奏を中止して焚いたのですが、しかし、これでもう、滑稽な腹芸はやめて頂きましょう。儂《わし》どもは貴方から、人形の処置について伺えばよいのですから」
「とにかく明日《あした》まで考えさせて下さい」法水はキッパリ云い切った。「しかし、つまるところ僕等は、人身擁護の機械なんですからね。護衛という点では、あの魔法博士に指一本差させやしませんよ」
法水がそう云い終ると同時に、クリヴォフ夫人は憤懣の遣《や》り場を露骨に動作に現わして、性急《せわ》しく二人を促し立ち上った。そして、法水を憎々しげに見下して悲痛な語気を吐き捨てるのだった。
「やむを得ません。どうせ貴方がたは、この虐殺史を統計的な数字としかお考えにならないのですからね。いいえ、結局私達の運命は、アルビ教徒(註一)か、ウェトリヤンカ郡民(註二)のそれに異ならないかもしれません。ですけど、もし対策が出来るものなら……ああ、それが出来るのでしたら、今後は、私達だけですることにいたしますわ」
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(註)(一)アルビ教徒――南フランス、アルビに起りし新宗教、摩尼《マニ》教の影響をうけて、新約聖書のすべてを否定したるによって、法王インノセント三世の主唱による新十字軍のために、一二〇九年より一二二九年まで約四十七万人の死者を生ずるにいたれり。
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(二)ウェトリヤンカ郡民――一八七八年露領アストラカンの黒死病|猖獗《しょうけつ》期において、ウェトリヤンカ郡を砲兵を有する包囲線にて封鎖し、空砲発射並びに銃殺にて威嚇《いかく》せしめ、郡民は逃れ得ず、ほとんど黒死病のために斃《たお》れたり。
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「いやどうして」と法水はすかさず皮肉に応酬した。「ですがクリヴォフ夫人、たしか聖《セント》アムブロジオだったでしょうか、死は悪人にもまた有利なり――と云いましたからな」
鎖を忘れられた聖《セント》バーナード犬《ドック》が、物悲しげに啼《な》きながら、セレナ夫人の跡を追うて行ったのが最後で、三人が去ってしまうと、入れ違いに一人の私服が先刻命じておいた裏庭の調査を完了して来た。そして、調査書を法水に渡してから、
「鎧通《よろいどお》しは、やはりあの一本だけでした。それから、本庁の乙骨《おとぼね》医師には、御申し付けどおりに渡しておきましたが」と復命すると、それに法水は、尖塔にある十二宮の円華窓《えんげまど》を撮影するように命じてから、その私服を去らしめた。熊城は当惑げな顔で、微かに嘆息した。
「ああまた扉《ドア》と鍵か、犯人は呪《まじな》い屋か錠前屋か、いったいどっちなんだい。まさかにジョン・デイ博士の隠顕扉が、そうザラにあるという訳じゃあるまい」
「驚いたね」法水は皮肉な微笑を投げた。「あんなもののどこに、創作的な技巧があってたまるもんか。そりゃ、この館から一歩でも外へ出れば、無論驚くべき疑問に違いないさ。けれども、先刻《さっき》君は書庫の中で、犯罪現象学の素晴らしい書目《ビブリオグラフィー》を見たはずだっけね。つまり、その扉を鎖させなかった技巧というのが、この館の精神生活の一部をなすものなんだ。庁へ帰ってからグロース(註)でも見れば、それで何もかも判ってしまうのだよ」
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(註)法水がグロースと云ったのは、「予審判事要覧」中の犯人職業的習性の章で、アッペルトの「犯罪の秘密」から引いた一例だと思う。以前召使だった靴型工の一犯人が、ある銀行家の一室に忍び入り、その室と寝室との間の扉を鎖さしめないために、あらかじめ閂《かんぬき》穴の中に巧妙に細工した三稜柱形の木片を插入して置く。それがために銀行家は、就寝前に鍵を下そうとしても閂が動かないので、すでに閉じたものと錯覚を起し、犯人の計画はまんまと成功せしと云う。
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法水があえて再言しようとはせず、そのまま不可避的なものとして放棄してしまったことは、平生検討的な彼を知る二人によると、異常な驚愕《きょうがく》に違いないのだった。が畢竟《ひっきょう》するところ、この事件の深さと神秘を、彼が書庫において測り得た結果であると云えよう。検事は再び法水の粋人的な訊問態度をなじりかかった。
「僕はレヴェズじゃないがね。君にやってもらいたいのは、もう動作劇《ハンドルングスドラマ》だけなんだ。ああいう恋愛詩人《ツルヴェール》趣味の唱《うた》合戦はいい加減にして、そろそろクリヴォフ夫人がそれとなしに仄《ほの》めかした、旗太郎の幽霊を吟味しようじゃないか」
「冗談じゃない」法水は道化《おどけ》たようななにげない身振をしたが、その顔にはいつもの幻滅的な憂鬱が一掃されていた。
「どうして、僕の
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