ような微かな跫音《あしおと》が裾の方へ遠ざかって行きます。そして、その跫音の主は、扉の前で私の視野の中に入ってまいりました。その男は振り返ったのです」
「それは誰でした?」そう云って、検事は思わず息を窒《つ》めたが、
「いいえ、判りませんでした」とクリヴォフ夫人は切なそうな溜息を吐いて、「卓上灯《スタンド》の光が、あの辺までは届かないのですから。でも、輪廓だけは判りましたわ。身長が五|呎《フィート》四、五|吋《インチ》ぐらいで、スンナリした、痩せぎすのように思われました。そして、眼だけが……」と述べられる肢体は、様子こそ異にすれ、何とはなしに旗太郎を髣髴《ほうふつ》とさせるのだった。
「眼に※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」熊城はほとんど慣性で一言挾んだ。すると、クリヴォフ夫人は俄然|傲岸《ごうがん》な態度に返って、
「たしかバセドー氏病患者の眼を暗がりで見て、小さな眼鏡に間違えたとか云う話がございましたわね」と皮肉に打ち返したが、しばらく記憶を摸索するような態度を続けてから云った。
「とにかく、そういう言葉は、感覚外の神経で聴いて頂きたいのです。強《し》いて申せば、その眼が真珠のような光だったと云うほかにございません。それから、その姿が扉《ドア》の向うに消えると、把手《ノッブ》がスウッと動いて、跫音《あしおと》が微かに左手の方へ遠ざかって行きました。それで、ようやく人心地がつきましたけども、いつの間にか髪が解かれたと見えて、私は始めて首を自由にすることが出来たのです。時刻はちょうど十二時半でございましたが、それからもう一度鍵を掛け直して、把手《ノッブ》を衣裳戸棚に結び付けました。けれども、そうなると、もう一睡どころではございませんでした。ところが、朝になって調べても、室内にはこれぞという異状らしい所がないのです。して見ると、てっきりあの人形使いに違いございませんわ。あの狡猾《こうかつ》な臆病者は、眼を醒ました私には、指一本さえ触れることが出来なかったのです」
結論として大きな疑問を一つ残したけれども、クリヴォフ夫人の口誦《くちずさ》むような静かな声は、側《かたわら》の二人に悪夢のようなものを掴ませてしまった。セレナ夫人もレヴェズ氏も両手を神経的に絡ませて、言葉を発する気力さえ失せたらしい。法水は眠りから醒めたような形で、慌《あわ》てて莨《たばこ》の灰を落したが、その顔はセレナ夫人の方へ向けられていた。
「ところでセレナ夫人、その風来坊はいずれ詮議するとして、時にこういうゴットフリートを御存じですか。|吾れ直ちに悪魔と一つになるを誰が妨ぎ得べきや《ヴァス・ヒエルテ・ミッヒ・ダス・イヒス・ニヒト・ホイテ・トイフェル》――」
「ですけど、その短剣《ゼッヒ》……」と次句を云いかけると、セレナ夫人はたちまち混乱したようになってしまって、冒頭の音節から詩特有の旋律を失ってしまった、「その|短剣の刻印に吾が身は慄え戦きぬ《ゼッヒ・シュテムペル・シュレッケン・ゲエト・ドゥルヒ・マイン・ゲバイン》――が、どうして。ああ、また何故に、貴方はそんなことをお訊きになるのです?」としだいに亢奮《こうふん》していって、ワナワナ身を慄《ふる》わせながら叫ぶのだった。「ねえ、貴方がたは捜していらっしゃるのでしょう。ですけど、あの男がどうして判るもんですか。いいえ、けっしてけっして、判りっこございませんわ」
法水は紙巻を口の中で弄《もてあそ》びながら、むしろ残忍に見える微笑を湛えて相手を眺めていたが、
「なにも僕は、貴女の潜在批判を求めていやしませんよ。あんな風精《ジルフェ》の黙劇《ダム・ショウ》なんざあ、どうでもいいのです。それよりこれを、いずこに住めりや、なんじ暗き音響《ひびきね》――なんですがね」とデーメールの「|沼の上《ユーベル・デン・ジュムフェン》」を引き出したが、相変らずセレナ夫人から視線を放そうとはしなかった。
「ああ、それではあの」とクリヴォフ夫人は、妙に臆したような云い方をして、「でも、よくマア、伸子さんが間違えて、朝の讃詠《アンセム》を二度繰り返したのを御存じですわね。実は、今朝あの方は一度、ダビデの詩篇九十一番のあの讃詠《アンセム》を弾いたのですが、昼の鎮魂楽《レキエム》の後には、火よ霰《あられ》よ雪よ霧よ――を弾くはずだったのです」
「いや、僕は礼拝堂の内部《なか》の事を云っているのですよ」と法水は冷酷に突き放した。「実は、この事を知りたいのです。あの時、|確かそこにあるは薔薇なり、その附近には鳥の声は絶えて響かず《ドッホ・ローゼン・ジンデス・ウォバイ・カイン・リード・メール・フレテット》――でしたからね」
「それでは、薔薇乳香《ローゼン・ヴァイラウフ》を焚《た》いた事ですか」レヴェズ氏も妙にギコちない調子で、探るように相手を見
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