心理表出摸索劇は終ったけれども、あれは歴史的な葛藤さ。ところが、僕が引っ組んだのは、あの三人じゃないのだ。ミュンスターベルヒなんだ。やはり、あいつは大|莫迦《ばか》野郎だったよ」
そこへ、警視庁鑑識医師の乙骨耕安《おとぼねこうあん》が入って来た。
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第四篇 詩と甲胄と幻影造型
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一、古代時計室へ
伸子の診察を終って入って来た乙骨《おとぼね》医師は、五十をよほど越えた老人で、ヒョロリと瘠せこけて蟷螂《かまきり》のような顔をしているが、ギロギロ光る眼と、一種気骨めいた禿《は》げ方とが印象的である。が、庁内きっての老練家だったし、ことに毒物鑑識にかけては、その方面の著述を五、六種持っているというほどで、無論|法水《のりみず》とも充分熟知の間柄だった。彼は座につくと無遠慮に莨《たばこ》を要求して、一口|甘《うま》そうに吸い込むと云った。
「さて法水君、僕の心像鏡的証明法は、遺憾ながら知覚喪失《オーンマハト》だ。だいたい廻転椅子がどうだろうがこうだろうが、結局あの蒼白く透き通った歯齦《はぐき》を見ただけで、僕は辞表を賭《か》けてもいいと思う。まさしく単純失神《トランス》と断言して差支えないのだ。ところで、ここで特に、熊城君に一言したいのだが、あの女が兇器の鎧通しを握っていたと聴いて、僕は|数当て骨牌《チックタッキング・カード》の裏を見たような気がしたのだよ。あの失神は、実に陰険|朦朧《もうろう》たるものなんだ。あまりに揃い過ぎているじゃないか」
「なるほど」法水は失望したように頷《うなず》いたが、「とにかく細目を承《うけたまわ》ろうじゃないか。あるいはその中から、君の耄碌《もうろく》さ加減が飛び出して来んとも限らんからね。ところで、君の検出法は?」
乙骨医師はところどころ術語を交えながら、きわめて事務的に彼の知見を述べた。
「無論吸収の早い毒物はあるにゃあるがね。それに、特異性のある人間だと、中毒量はるか以下のストリキニーネでも、屈筋震顫症《アテトージス》や間歇強直症《テタニイ》に類似した症状を起す場合がある。しかし、中毒としては末梢的所見はないのだし、胃中の内容物はほとんど胃液ばかりなんだ。――これはちょっと不審に思われるだろう。けれども、あの女が消化のよい食物を摂ってから二時間ぐらいで斃《たお》れたのだとしたら、胃の空虚には毫《ごう》も怪しむところはない。それから、尿にも反応的変化はないし、定量的に証明するものもない。ただ徒《いたず》らに、燐酸塩が充ち溢れているばかりなんだ。あの増量を、僕は心身疲労の結果と判断するが、どうだい」
「明察だ。あの猛烈な疲労さえなければ、僕は伸子の観察を放棄してしまっただろう」法水は何事かを仄《ほの》めかして、相手の説を肯定したが、「ところで、君が投じた試薬《リアクティヴ》は、たったそれだけかね」
「冗談じゃない。結局徒労には帰したけれども、僕は伸子の疲労状態を条件にして、ある婦人科的観察を試みたんだ。法水君、今夜の法医学的意義は、Pennyroyal《ペニイロイヤル》([#ここから割り注]毒性を有する薬草[#ここで割り注終わり])一つに尽きるんだよ。あの×・××ぐらいを健康未妊娠子宮に作用させると、ちょうど服用後一時間ほどで、激烈な子宮痳痺[#「痳痺」はママ]が起る。そして、ほとんど瞬間的に失神類似の症状が現われるんだ。ところが、その成分である Oleum Hedeomae Apiol さえ検出されない。勿論あの女には、既往において婦人科的手術をうけた形跡がないばかりでなく、中毒に対する臓器特異性を思わせる節《ふし》もないのだ。そこで法水君、僕の毒物類例集は結局これだけなんだけども、しかし結論として一言云わせてもらえるなら、あの失神の刑法的意義は、むしろ道徳的感情にあると云うに尽きるだろう。つまり、故意か内発か――なんだ」と乙骨医師は卓子《テーブル》をゴツンと叩いて、彼の知見を強調するのだった。
「いや、純粋の心理病理学《プシヒョバトロギイ》さ」法水は暗い顔をして云い返した。「ところで、頸椎《けいつい》は調べたろうね。僕はクインケじゃないが、恐怖と失神は頸椎の痛覚なり――と云うのは至言だと思うよ」
乙骨医師は莨《たばこ》の端をグイと噛み締めたが、むしろ驚いたような表情を泛《うか》べて、
「うん僕だって、ヤンレッグの『|病的衝動行為について《ユーベル・クランクハフテ・トリープハンドルンゲン》』や、ジャネーの『験触野《シヤン・エステジオメトリック》』ぐらいは読んでいるからね。いかにも、第四頸椎に圧迫がある場合に衝動的吸気《インスピラチヨン》を喰うと、横隔膜に痙攣《けいれん》的な収縮が起る。だがしかしだ。その肝腎《かんじん》な傴僂《
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