うな」
「鎮魂楽《レキエム》※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」と鎮子は怪訝《けげん》な顔をして、「だが、あれを見て、いったいどうなさるのです?」
「それでは、まだ御存じないのですか」法水はちょっと驚いた素振を見せたが、厳粛な調子で云った。
「実は、終曲《フィナーレ》近くで、二つの提琴《ヴァイオリン》が弱音器を付けたのですよ。ですから、かえって私は、ベルリオーズの幻想交響楽《シンフォニカ・ファンタジア》でも聴く心持がしました。たしかあれには、絞首台に上った罪人が地獄に堕ちる――その時の雷鳴を聴かせるというところに、雹《ひょう》のような椀太鼓《ティムパニー》の独奏《ソロ》がありましたっけね。そこに私は、算哲博士の声を聴いたような気がしたのです」
「マア、とんでもない誤算ですわ」と鎮子は憫笑《びんしょう》を湛えて、
「あれは、算哲様の御作ではございません。威人《ウェルシュ》の建築技師クロード・ディグスビイ自作ものなのです。とにかく、あんなものをお気になさるようじゃ、もう一人|死霊《おばけ》がふえた訳ですわね。ですが、貴方の対位法的推理にぜひ必要なものなら、なんとか捜し出してまいりましょう」
法水がしばらく自己を失っていたのも、けっして無理ではなかった。彼がジョン・ステーナー([#ここから割り注]今世紀の当初病歿した牛津(オックスフォード)の音楽科教授[#ここで割り注終わり])の作と推測し、それに算哲が、何かの意志で筆を加えたものと信じていた鎮魂曲《レキエム》が、人もあろうに、この館の設計者ディグスビイの作だったのだ。帰国の船中|蘭貢《ラングーン》で投身したと云われる威人《ウェルシュ》の建築技師が、この不思議な事件にも何か関係《かかわり》を持っているのではないのだろうか。しかし法水が、最初から死者の世界にも、詮索を怠らなかったことは、さすがに烱眼《けいがん》であると云えよう。
鎮子が原譜を探している間、法水は書架に眼を馳《は》せて、降矢木の驚嘆すべき収蔵書を一々記憶に止めることが出来た。それが、黒死館において精神生活の全部を占めるものであることは云うまでもないが、あるいはこの書庫のどこかに、底知れない神秘的な事件の、根源をなすものが潜んでいないとも限らないのである。法水は背文字を敏速《すばや》く追うていって、しばらくの間、紙と革のいきれるような匂いの中で陶酔していた。
一六七六年([#ここから割り注]ストラスブルグ[#ここで割り注終わり])版のプリニウス「万有史《ナトウラリス・ヒストリア》」の三十冊と、古代百科辞典の対として「ライデン古文書《パピルス》」が、まず法水に嘆声を発せしめた。続いてソラヌスの「使者神指杖《カデュセウス》」をはじめ、ウルブリッジ、ロスリン、ロンドレイ等の中世医書から、バーコー、アルノウ、アグリッパ等の記号語使用の錬金薬学書、本邦では、永田|知足斎《ちそくさい》、杉田玄伯、南陽原《みなみようげん》等の蘭書釈刻をはじめ、古代支那では、隋の「経籍志」、「玉房指要」、「蝦蟇図経《かばくずきょう》」、「仙経」等の房術書医方。その他、Susrta《スシュルタ》, |Charaka Samhita《チャラカ・サンヒター》 等の婆羅門《ばらもん》医書、アウフレヒトの「愛経《カーマ・スートラ》」梵語原本。それから、今世紀二十年代の限定出版として有名な「生体解剖要綱《ヴィヴィセクション》」、ハルトマンの「|小脳疾患者の徴候学《ディ・ジンプトマトロギイ・デル・クラインヒルン・エルクランクンゲン》」等の部類に至るまで、まさに千五百冊に垂々《なんなん》とする医学史的な整列だった。次に、神秘宗教に関する集積もかなりな数に上っている。倫敦《ロンドン》亜細亜《アジア》協会の「孔雀王呪経《くじゃくおうじゅきょう》」初版、暹羅《シャム》皇帝勅刊の「阿※[#「口+它」、第3水準1−14−88]曩胝《アタナテイ》経」、ブルームフィールドの「黒夜珠吠陀《クリシュナ・ヤジュル・ヴェーダ》」をはじめ、シュラギントヴァイト、チルダース等の梵字密教経典の類。それに、猶太《ユダヤ》教の非経聖書《アポクリファ》、黙示録《アポカリプス》、伝道書《コヘレット》類の中で、特に法水の眼を引いたのは、猶太教会音楽の珍籍としてフロウベルガーの「フェルディナンド四世の死に対する悲嘆」の原譜と、聖ブラジオ修道院から逸出を伝えられている手写本中の稀書、ヴェザリオの「神人混婚《ベネエ・エロヒイム》」が、秘かに海を渡って降矢木の書庫に収まっていることだった。それから、ライツェンシュタインの「密儀宗教《ミステリエン・レリギオネン》」の大著からデ・ルウジェの「葬祭儀式《リチュエル・フュネレイル》」。また、抱朴子《ほうぼくし》の「遐覧《からん》篇」費長房の「歴代三宝記」「老子|化胡経
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