陰陽教《ゾロアスター》([#ここから割り注]ツァラツストラが創始せる波斯(ペルシヤ)の苦行宗教[#ここで割り注終わり])の呪法綱領なんだよ。神格よりうけたる光は、その源の神をも斃《たお》す事あらん――と云ってね。勿論その呪文の目的は、接神の法悦を狙《ねら》っている。つまり、飢餓入神を行う際に、その論法を続けると、苦行僧に幻覚の統一が起ってくると云うのだ」と法水は彼に似げない神秘説を吐いたが、云うまでもなく、奥底知れない理性の蔭に潜んでいるものを、その場去らずに秤量《しょうりょう》することは不可能だった。しかし、法水の言《ことば》を、神意審問会の異変と対照してみると、あるいは、死体|蝋燭《ろうそく》の燭火《しょくか》をうけた乾板が、ダンネベルグ夫人に算哲の幻像を見せて、意識を奪ったのではないか。――と云うような幽玄きわまる暗示が、しだいに濃厚となってくるけれども、その矢先思いがけなく、それをやや具体的に仄《ほの》めかして、法水は立ち上った。
「しかし、これでいよいよ、神意審問会の再現が切実な問題になってきたよ。さて、裏庭へ行って、この見取図に書いてある二条の足跡を調べることにするかな」
ところが、その途中通りすがりに、階下の図書室の前まで来ると、法水は釘付けされたように立ち止ってしまった。熊城は時計を眺めて、
「四時二十分――もうそろそろ、足許が分らなくなってくるぜ。言語学の蔵書なら後でもいいだろう」
「いや、鎮魂楽《レキエム》の原譜を見るのさ」と法水はキッパリ云い切って、他の二人を面喰《めんくら》わせてしまった。しかしそれで、先刻《さっき》の演奏中終止符近くになって、二つの提琴《ヴァイオリン》が弱音器をつけた――そのいかにも楽想を無視している不可解な点に、法水が強い執着を持っているのが判った。彼は背後で、把手《とって》を廻しながら、続いて云った。
「熊城君、算哲という人物は、実に偉大な象徴派詩人《サムボリスト》じゃないか。この尨大《ぼうだい》な館《やかた》もあの男にとると、たかが『影と記号で出来た倉』にすぎないのだ。まるで天体みたいに、多くの標章を打《ぶ》ち撒《ま》けておいて、その類推と総合とで、ある一つの恐ろしいものを暗示しようとしている。だから、そういう霧を中に置いて事件を眺めたところで、どうして何が判ってくるもんか。あの得体の知れない性格は、あくまでも究明せんけりゃならんよ」
その最終の到達点というのが、黙示図の知られてない半葉を意味していると云うことも……また、その一点に集注されてゆく網流の一つでもと、いかに彼が心中|喘《あえ》ぎ苛立《いらだ》って捜し求めているか、十分想像に難くないのであった。しかし、扉《ドア》を開くと、そこには人影はなかったけれど、法水は眼の眩《くら》むような感覚に打たれた。四方の壁面は、ゴンダルド風の羽目《パネル》で区切られていて、壁面の上層には囲繞《いにょう》式の採光層《クリアストーリー》が作られ、そこに並んでいる、イオニア式の女像柱《カリアテイデ》が、天井の迫持《せりもち》を頭上で支えている。そして、採光層《クリアストーリー》から入る光線は、「ダナエの金雨受胎」を黙示録の二十四人長老で囲んでいる天井画に、なんとも云えぬ神々しい生動を与えているのだった。なお床に、チュイルレー式の組字をつけた書室家具が置かれてあるところと云い、また全体の基調色として、乳白大理石と焦褐色《ヴァンダイクブラウン》の対比を択んだところと云い、そのすべてが、とうてい日本においては片影すら望むことの出来ない、十八世紀維納《クムメルスブリュケル》風の書室造りだったのである。その空《がら》んとした図書室を横切って、突当りの明りが差している扉を開くと、そこは、好事家《こうずか》に垂涎《すいぜん》の思いをさせている、降矢木の書庫になっていた。二十層あまりに区切られている、書架の奥に事務机があって、そこには、久我鎮子の皮肉な舌が待ち構えていた。
「オヤ、この室にお出でになるようじゃ、たいした事もなかったと見えますね」
「事実そのとおりなんです。あれ以後人形が出ない代りに、死霊《おばけ》は連続的に出没していますよ」と法水は先を打たれて、苦笑した。
「そうでしょう。先刻《さっき》はまた妙な倍音が聴えましたわ。でも、まさか伸子さんを犯人になさりゃしないでしょうね」
「ああ、あの倍音を御存じでしたか」と法水は瞼を微かに戦《おのの》かせたが、かえって探るような眼差で相手を見て、
「しかし、この事件全体の構成だけは判りましたよ。それが、貴女《あなた》の云われたミンコフスキーの四次元世界なんです」といっこう動じた色も見せず、続いて本題を切り出した。
「ところで、その過去圏を調べにまいったのですが、たしか、鎮魂楽《レキエム》の原譜はあるでしょ
前へ
次へ
全175ページ中50ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
小栗 虫太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング