は自室にて臥床す。
久我鎮子。訊問後は図書室より出でず、その事実は、図書運びの少女によって証明さる。
紙谷伸子。正午に昼食を自室に運ばせた時以外は、廊下にて見掛けたる者もなく、自室に引き籠れるものと推察さる。一時半頃鐘楼階段を上り行く姿を目撃したる者あり。
以上の事実の外いっさい異状なし。
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「法水君、ダマスクスへの道は、たったこの一つだよ」と検事は熊城と視線を合わせて、さも悦に入ったように揉手《もみて》をしながら「見給え。すべてが伸子に集注されてゆくじゃないか」
法水はその調査書を衣袋《ポケット》に突き込んだ手で、先刻|拱廊《そでろうか》で受け取った、硝子の破片とその附近の見取図を取り出した。が、開いてみると、実にこの事件で何度目かの驚愕《きょうがく》が、彼等の眼を射った。二条《にじょう》の足跡が印されている、見取図に包まれているのが何であったろうか、意外にもそれが、写真乾板の破片だったのである。
二、死霊集会《シエオール》の所在
沃化《ようか》銀板――すでに感光している乾板を前にして、法水もさすが二の句が継げなかった。事実この事件とは、異常に隔絶した対照をなしているからであった。それなので、紆余曲折《うよきょくせつ》をたどたどしく辿《たど》って行って、最初からの経過を吟味してみても、だいたい乾板などという感光物質によって、標章形象化される個所《ところ》は勿論のことだが、それに投射し暗喩するような、連字符一つさえ見出されないのである。それがもし、実際に犯罪行動と関係あるものなら、恐らく神業であるかもしれない。こうして、しばらく死んだような沈黙が続いた。その間召使が炉に松薪《まつまき》を投げ入れ、室内が仄《ぽっ》かり暖まってくると、法水は焔の舌を見やりながら、微かに嘆息した。
「ああ、まるで恐竜《ドラゴン》の卵じゃないか」
「だが、いったい何に必要だったのだろう?」と検事は法水の強喩法《カタクレーズ》を平易に述べた。そして、開閉器《スイッチ》を捻《ひね》ると、
「まさか撮影用じゃあるまいが」と熊城は、不意の明るさに眼を瞬《しばたた》きながら、「いや、死霊《おばけ》は事実かもしれん。第一、易介が目撃したそうだが、昨夜神意審問会の最中に、隣室の張出縁で何者かが動いていて、その人影が地上に何か落したと云うそうじゃないか。しかも、その時七人のうちで室《へや》を出たものはなかったのだ。だいたい階下の窓から落されたものなら、こんなに細かく割れる気遣いはないよ」
「うん、その死霊《おばけ》は恐らく事実だろうよ」と法水はプウと煙の輪を吐いて、「しかし、彼奴《あいつ》がその後に死んでいるという事も、また事実だろう」と意外な奇説を吐いた。「だって、ダンネベルグ事件とそれ以後のものを、二つに区分して見給え。僕の持っているあの逆説《パラドックス》が、綺麗《きれい》さっぱりと消えてしまうじゃないか。つまり、風精《ジルフェ》は水神《ウンディネ》のいたのを知って、それを殺したのだ。けっして、あの二つの呪文が連続しているのに、眩《くら》まされちゃならん。ただし、犯人は一人だよ」
「では、易介以外にも」熊城は吃驚《びっくり》して眼を円くしたが、それを検事が抑えて、
「なあに、捨てておき給え。自分の空想に引っ張り廻されているんだから」と法水を嗜《たしな》めるように見た。「どうも、君の説は世紀児的《アンファン・デュ・シエクル》だ。自然と平凡を嫌っている。粋人的な技巧には、けっして真性も良識もないのだ。現に、先刻《さっき》も君は夢のような擬音でもって、あの倍音に空想を描いていた。しかし、同じような微かな音でも、伸子の弾奏がそれに重なったとしたらどうするね?」
「これは驚いた! 君はもうそんな年齢《としごろ》になったのかね」と道化《おどけ》した顔をしたが、法水は皮肉に微笑み返して、「だいたいヘンゼンでもエーワルトでもそうだが、お互いに聴覚生理の論争はしていても、これだけは、はっきりと認めている。つまり、君の云う場合に当る事だが……たとえば同じような音色で微かな音が二つ重なったにしても、その音階の低い方は、内耳の基礎膜に振動を起さないと云うのだ。ところが、老年変化が来ると、それが反対になってしまうのだよ」と検事をきめつけてから、再び視線を乾板の上に落すと、彼の表情の中に複雑な変化が起っていった。
「だが、この矛盾的産物はどうだ。僕にもさっぱり、この取り合わせの意味が呑《の》み込めんよ。しかし、ピインと響いてくるものがある。それが妙な声で、ツァラツストラはかく語りき――と云うのだ」
「いったいニイチェがどうしたんだ?」今度は検事が驚いてしまった。
「いや、シュトラウスの交響楽詩《シムフォニック・ポエム》でもないのさ。それが、
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