のを要求する。そうすればたぶん、犯人の飛躍的な不在証明《アリバイ》を打破出来やしないかと思うよ」と法水は押し返すように云ったが、続いて二つの軌道を明示した。「とにかく涯《はて》しない旅のようだけども、風精《ジルフェ》を捜す道はこの二つ以外にはない。つまり、結果において、ゲルベルト風の共鳴弾奏術が再現されるとなれば、無論問題なしに、伸子が自企的な失神を計ったと云って差支えあるまい。また、何か擬音的な方法が証明されるようなら、犯人は伸子に、失神を起させるような原因を与えて、しかる後に鐘楼から去った――と云うことが出来るのだ。いずれにしろ、倍音が発せられた当時、ここには伸子のほか誰もいなかったのだ。それだけは明らかなんだよ」
「いや、倍音は附随的なものさ」と熊城は反対の見解を述べた。「要するに、君の難解嗜好癖なんだ。たかが、論理形式の問題にすぎんじゃないか。伸子が失神した原因さえ解れば、なにも君みたいに、最初から石の壁の中に頭を突っ込む必要はないと思うよ」
「ところが熊城君」と法水は皮肉にやり返して、「たぶん伸子の答弁だけを当《あて》にしたら、まずこんな程度にすぎまいと思うがね。気分が悪くなって、その後の事はいっさい判りません――て。いや、そればかりじゃない。あの倍音の中には、失神の原因をはじめとして、鎧通しを握っていた事から、先刻《さっき》僕が指摘した廻転椅子の矛盾に至るまでの、ありとあらゆる疑問が伏さっているに違いないのだ。事によると、易介事件の一部まで、関係してやしないかと思われるくらいだよ」
「ウン、たしかに心霊主義《スピリチュアリズム》だ」と検事が暗然と呟《つぶや》くと、法水はあくまで自説を強調した。
「いやそれ以上さ。だいたい、楽器の心霊演奏は必ずしも例に乏しい事じゃない。シュレーダーの『生体磁気説《レーベンス・マグネチスムス》』一冊にすら、二十に近い引例が挙げられている。しかし、問題は音の変化なのだ。ところがさしもの聖オリゲネスさえ嘆称を惜しまなかったと云う、千古の大魔術師――亜歴山府《アレキサンドリア》のアンティオクスでさえも、水風琴《ヒドラリウム》の遠隔演奏はしたと云うけれど、その音調についてはいっこうに記されていない。また、例のアルベルツス・マグヌス([#ここから割り注]十三世紀の末、エールブルグのドミニク僧団にいた高僧。錬金魔法師の声名高しといえども、通性論哲学者であり、かつまた中世著名の物理学者ことに心霊術士としては古今無双ならんと云わる。[#ここで割り注終わり])が携帯用風琴《レガール》で行《おこな》った時も同じ事なんだ。それから近世になって、伊太利《イタリー》の大霊媒ユーザピア・パラルディノが、金網の中に入れた手風琴《アッコーディオン》を動かしたけれども、肝腎《かんじん》の音色については、狂学者フラマリオンすら語るところがないのだ。つまり、心霊現象でさえ、時間空間には君臨することが出来ても、物質構造《マッス》だけにはなんらの力も及ばないことが判るだろう。ところが熊城君、その物質構成の大法則が、小気味よく顛覆《てんぷく》を遂げているんだ。ああ、なんという恐ろしい奴《やつ》だろう。風精《ジルフェ》――空気と音の妖精――やつは鐘を叩いて逃げてしまったのだ」
結局倍音についての法水の推断は、明確《はっきり》と人間思惟創造の限界を劃したに止まっていた。しかし、犯人は、それすらあっけなく踏み越えて、誰しも夢にも信じられなかったところの、超心霊的な奇蹟をなし遂げているのだ。それであるからして、紛乱した網を辛《や》っと跳ね退けたかと思うと、眼前の壁はすでに雲を貫いている。そうなると、伸子の陳述にも、さした期待が持てなくなったことは云うまでもないが、別して法水が顕示した、不思議な倍音に達する二つの道にも、万が一の僥倖《ぎょうこう》を思わせるのみのことで、早くも忘れ去られようとするほどの心細さだった。やがて、鐘鳴器《カリルロン》室を出てダンネベルグ夫人の室《へや》に戻ると、夫人の死体は、既《とう》に解剖のため運び去られていて、その陰気な室の中には、先刻《さっき》家族の動静調査を命じておいた、一人の私服が、ポツネンと待っていた。傭人《やといにん》の口から吐かせた調査の結果は、次のとおりだった。
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降矢木旗太郎。正午昼食後、他の家族三人と広間《サロン》にて会談し、一時五十分|経文歌《モテット》の合図とともに打ちそろって礼拝堂に赴き、鎮魂楽《レキエム》の演奏をなし、二時三十五分、礼拝堂を他の三人とともに出て自室に入る。
オリガ・クリヴォフ(同前)
ガリバルダ・セレナ(同前)
オットカール・レヴェズ(同前)
田郷真斎。一時三十分までは、召使二人とともに過去の葬儀記録中より摘録をなしいたるも、訊問後
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