ツルヴェール史詩集成』の中に、ゲルベルトに関する妖異譚が載っている。勿論当時のサラセン嫌悪の風潮で、ゲルベルトをまるで妖術師扱いにしているのだが、とにかくその一節を抜萃《ぬきだ》してみよう。一種の錬金抒情詩《アルケミー・リリック》なんだよ。

[#ここから1字下げ]
ゲルベルト畢宿七星《アルデパラン》を仰ぎ眺めて
平琴《ダルシメル》を弾ず
はじめ低絃を弾《はじ》きてのち黙す
しかるにその寸後《しばしのち》
側《かたわら》の月琴《タムブル》は人なきに鳴り
ものの怪《け》の声の如く、高き絃音にて応《こた》う
されば
傍人《かたわらのひと》、耳を覆いて遁《のが》れ去りしとぞ
[#ここで字下げ終わり]

 ところが、キイゼヴェッテルの「古代楽器史」を見ると、月琴《タムブル》は腸線楽器だが、平琴《ダルシメル》の十世紀時代のものになると、腸線の代りに金属線が張られていて、その音がちょうど、現在の鉄琴《グロッケンシュピール》に近いと云うのだがね。そこで、僕はその妖異譚の解剖を試みたことがあった。ねえ熊城君、中世非文献的史詩と殺人事件との関係《つながり》を、ここで充分|咀嚼《そしゃく》してもらいたいと思うのだよ」
「フン、まだあるのか」と熊城は、唾《つばき》で濡れた莨《たばこ》とともに、吐き出すように云った。「もう角笛や鎖|帷子《かたびら》は、先刻《さっき》の|人殺し鍛冶屋《ヴェンヴェヌート・チェリニ》で終りかと思ったがね」
「あるともさ。それが、史家ヴィラーレの綴った、『ニコラ・エ・ジャンヌ』なんだ。奇蹟処女《ジャンヌ・ダルク》を前にすると、顧問判官どもがブルブル慄《ふる》えだして、実に奇怪きわまる異常神経を描き出したのだ。その心理を、後世裁判精神病理学の錚々《そうそう》たる連中が何故引用しないのだろうと、僕はすこぶる不審に思っているくらいなんだよ。ところで、この場合は、すこぶる妖術的な共鳴現象を思いついたのだ。つまり、それを洋琴《ピアノ》で喩えて云うと、最初※[#音名「一点ハ」の全音符を表わす楽譜(fig1317_09.png)、145−6]の鍵《キイ》を音の出ないように軽く押さえて、それから※[#音名「い」の全音符を表わす楽譜(fig1317_10.png)、145−7]の鍵を強く打ち、その音が止んだ頃に※[#音名「一点ハ」の全音符を表わす楽譜(fig1317_09.png)、145−7]の鍵《キイ》を押さえた指を離すと、それからは妙に声音的な音色で、※[#音名「一点ハ」の全音符を表わす楽譜(fig1317_09.png)、145−8]の音が明らかに発せられる。無論共鳴現象だ。つまり、※[#音名「い」の全音符を表わす楽譜(fig1317_10.png)、145−8]の音の中には、その倍音すなわち二倍の振動数を持つ※[#音名「一点ハ」の全音符を表わす楽譜(fig1317_09.png)、145−9]の音が含まれているからなんだが、しかしそういう共鳴現象を鐘に求めるということは、理論上全然不可能であるかもしれない。けれども、それからまた要素的な暗示が引き出せる。と云うのが、擬音なんだよ。熊城君、君は木琴《シロフォーン》を知っているだろう。つまり、乾燥した木片なり、ある種類の石を打つと、それが金属性の音響を発するということなんだ。古代支那には、編磬《ピエンチン》のような響石楽器や、方響《ファンシアン》のような扁板打楽器があり、古代インカの乾木鼓《テポナットリ》やアマゾン印度人《インディアン》の刃形響石も知られている。しかし、僕が目指しているのは、そういう単音的なものや音源を露出した形のものじゃないのだ。ところで君達は、こういう驚くべき事実を聴いたらどう思うね――。孔子《こうし》は舜《しゅん》の韻学の中に、七種の音を発する木柱のあるのを知って茫然となったと云う。また、秘露《ペルー》トルクシロの遺跡にも、トロヤ第一層都市遺跡([#ここから割り注]紀元前一五〇〇年時代すなわち落城当時[#ここで割り注終わり])の中にも、同様の記録が残されている……」と該博な引証を挙げた後に、法水はこれら古史文の科学的解釈を、一々殺人事件の現実的な視覚に符合させようと試みた。
「とにかく、魔法博士デイの隠顕|扉《ドア》があるほどだからね。この館にそれ以上、技巧呪術《アート・マジック》の習作が残されていないとは云えまい。きっと、最初の英人建築技師ディグスビイの設計を改修した所に、算哲のウイチグス呪法精神が罩《こ》もっているに違いないのだ。つまり、一本の柱、貫木《たるき》にもだよ。それから蛇腹《じゃばら》、また廊下の壁面を貫いている素焼《テラコッタ》の朱線にも、注意を払っていいと思う」
「すると、君は、この館の設計図が必要なのかね」と熊城が呆れ返って叫ぶと、
「ウン、全館
前へ 次へ
全175ページ中47ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小栗 虫太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング