いよいよ確定されてしまうと、法水には痛々しい疲労の色が現われ、もはや口を聴く気力さえ尽き果てたように思われた。しかし、考えようによっては、より以上の怪態《けたい》と思われる伸子の失神に、もう一度神経を酷使せねばならぬ義務が残っていた。その頃はもう日没が迫っていて、壮大な結構は幽暗《うすやみ》の中に没し去り、わずかに円華窓から入って来る微かな光のみが、冷たい空気の中で陰々と揺《ゆら》めいていた。その中で、時折翼のような影が過《よぎ》って行くけれども、たぶん大鴉《おおがらす》の群が、円華窓の外を掠《かす》めて、尖塔の振鐘《ピール》の上に戻って行くからであろう。
 ところで伸子の状態についても、細叙の必要があると思う。伸子は丸形の廻転椅子に腰だけを残して、そこから下はやや左向きになり、上半身はそれと反対に、幾分|右方《みぎかた》に傾いていて、ガクリと背後にのけ反っている。その倒辺三角形に似た形を見ても、彼女は演奏中に、その姿のままで後方へ倒れたものであることは明らかだった。しかし、不思議な事には、全身にわたって鵜《う》の毛ほどの傷もなく、ただ床へ打ち当てた際に、出来たらしい皮下出血の跡が、わずか後頭部に残されているのみだった。また中毒と思《おぼ》しい徴候も現われていない。両眼も※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《ひら》いているが、活気なく懶《ものう》そうに濁っていて、表情にも緊張がなく、それに、下|顎《あご》だけが開いているところと云い、どことなく悪心《おしん》とでも云ったら当るかもしれない、不快気な表情が残っているように思われた。全身にも、単純失神特有の徴候が現われていて、痙攣《けいれん》の跡もなく、綿のように弛緩しているけれども、不審な事には、仄《ほん》のり脂《あぶら》が浮いている鎧通しだけは、かなり固く握り締めていて、腕を上げて振ってみても、いっこうに掌から外れようとはしない。総体として失神の原因は、伸子の体内に伏在しているものと、思うよりほかにないのであった。法水は心中決するところがあったとみえて、伸子を抱き上げた私服に云った。
「本庁の鑑識医にそう云ってくれ給え。――第一、胃|洗滌《せんでき》をやるように。それから胃中の残留物と尿の検査する事と、婦人科的な観察だ。またもう一つは、全身の圧痛部と筋反射を調べる事なんだ」
 そうして、伸子が階下に運ばれてしまうと、法水は一息|莨《たばこ》の烟《けむり》をグイと喫《す》い込んでから、
「ああ、この局面《シチュエーション》は、僕にとうてい集束出来そうもないよ」と弱々しい声で呟《つぶや》くのだった。
「だが、伸子の身体に現われているものだけは簡単じゃないか。なあに、正気に戻れば何もかも判るよ」検事は無雑作に云ったが、法水は満面に懐疑を漲《みなぎ》らせてなおも嘆息を続けた。
「いやどうして、錯雑顛倒しているところは相変らずのものさ。かえってダンネベルグ夫人や、易介よりも難解かもしれない。それが、意地悪く徴候的なものじゃないからだよ。いっこう何もないようでいて、そのくせ矛盾だらけなんだ。とにかく、専門家の鑑識を求めることにしたよ。僕のような浅い知識だけで、どうしてこんな化物みたいな小脳の判断が出来るもんか。なにしろ、筋覚伝導の法則が滅茶滅茶に狂っているんだから」
「しかし、こんな単純なものを……」と熊城が、異議を述べ立てようとすると、法水はいきなり遮って、
「だって内臓にも原因がなく、中毒するような薬物も見つからないとなった日には、それこそ風精天蝎宮《ジルフェスコルピオ》([#ここから割り注]運動神経を管掌す[#ここで割り注終わり])へ消え失せたり――になってしまうぜ」
「冗談じゃない、どこに外力的な原因があるもんか。それに痙攣《けいれん》はないし、明白な失神じゃないか」今度は検事がいがみ掛った。「どうも君は、単純なものにも紆余《うよ》曲折的な観察をするので困るよ」
「勿論明白なものさ。しかし、失神《トランス》――だからこそなんだ。それが精神病理学の領域にあるものなら、古いペッパーの『類症鑑別』一冊だけで、ゆうに片づいてしまうぜ。無論|癲癇《てんかん》でもヒステリー発作でもないよ。また、心神顛倒《エクスタシー》は表情で見当がつくし、類死《カタレプシー》や病的半睡《モービッド・ソムノレンス》や電気睡眠《エレクトリッシュ・シュラフズフト》でもけっしてないのだ」と云って、法水はしばらく天井を仰向いていたが、やがて変化のない裏声で云った。
「ところが支倉《はぜくら》君、失神が下等神経に伝わっても、そういう連中が各々《めいめい》勝手|気儘《きまま》な方向に動いている――それはいったい、どうしたってことなんだい。だから、僕はこういう信念も持たされてしまったのだ。例えば、鎧通しを握っていたこと
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