に、有利な説明が付いたとしてもだよ。そうなっても倍音の神秘が露《あば》かれない限りは、当然失神の原因に、自企的な疑いを挾まねばならない――とね。どうだい?」
「そりゃ神話だ。マアしばらく休んだ方がいいよ。君は大変疲れているんだ」と熊城はてんで受付けようとはしなかったが、法水はなおも夢見るような調子で続けた。
「そうだ熊城君、事実それは伝説に違いないのだ。ネゲラインの『北欧伝説学』の中に、その昔|漂浪楽人《スカルド》が唱い歩いたとか云う、ゼッキンゲン侯リュデスハイムの話が載っているんだ。時代はフレデリック([#ここから割り注]第五[#ここで割り注終わり])十字軍の後だがマア聴いてくれ給え。――歌唱詩人《バルド》オスワルドは、ヴェントシン([#ここから割り注]ヒヨスの毛茸ならんと云わる[#ここで割り注終わり])を入れたる酒を飲むと見る間に、抱琴《クロッチ》を抱ける身体波のごとくに揺ぎはじめ、やがて、妃ゲルトルーデの膝に倒る。リュデスハイムは、かねてカルパトス島([#ここから割り注]クリート島の北方[#ここで割り注終わり])の妖術師レベドスよりして、ヴェニトシン向気《こうき》の事を聴きいたれば、ただちに頭《こうべ》を打ち落し、骸《かばね》とともに焚き捨てたり――と。これは漂浪楽人《スカルド》中の詩王イウフェシススの作と云われているが、これを史家ベルフォーレは、十字軍によって北欧に移入された純|亜剌比亜《アラブ》・加勒泥亜《カルデア》呪術の最初の文献だと云い、それが培《つちか》って華《はな》と結んだのがファウスト博士であって、彼こそは中世魔法精神の権化であると結論しているのだ」
「なるほど」と検事は皮肉に笑って、「五月になれば、林檎《りんご》の花が咲き、城内の牛酪《ぎゅうらく》小屋からは性慾的な臭いが訪れて来る。そうなれば、なにしろ亭主が十字軍に行っているのだからね。その留守中に、貞操帯の合鍵を作《こしら》えて、奥方が抒情詩人《ミンネジンゲル》と春戯《いちゃつ》くのもやむを得んだろうよ。だがただしだ。その方向を殺人事件の方に転換してもらおう」
法水は半ば微笑みながら、沈痛な調子で云い返した。
「ずさん[#「ずさん」に傍点]だよ支倉君、君は検事のくせに、病理的心理の研鑽を疎《おろそ》かにしている。もしそうでなければ、『古代丁抹伝説集《パムペピサウ》』などの史詩に現われている妖術精神や、その中に、黴毒《ばいどく》性|癲癇《てんかん》性の人物などがさかんに例証として引かれている――そのくらいの事は、当然憶えてなければならないはずだよ。ところでこのリュデスハイム譚《ものがたり》は、別に引証されてはいないけれども、メールヒェンの『朦朧状態《デームメル・シュテンデ》』を読むと、詩で唱われたオスワルドの喪神状態が、それには科学的に説明されている。その中の単純失神の章に、こうあるのだよ。失神が起ると、大脳作用が一方的に凝集するために、執意はたちまち消え失せてしまって、全身に浮揚感が起ってくる。しかし、一方小脳の作用が停止するのは、やや後であるために、その二つが力学的に作用し合って、無論わずかな間だけれども、全身に横波をうけたような動揺を起す――と云うのだ。ところが、伸子の身体は、その際に自然の法則を無視してしまって、かえって反対の方向に動いているのだよ」と伸子が腰を下していた廻転椅子を、クルッと仰向けにして、その廻転心棒を指差した。「ところで支倉君、僕はいま自然の法則なぞと大袈裟《おおげさ》に云ったけれども、たかがこの椅子の廻転にすぎないのだよ。螺旋《らせん》の方向は、これで見るとおりに、右捻《みぎねじ》だ。そして、心棒が全く螺旋孔《ねじあな》の中に没し去っていて、右へ低くなってゆく廻転は、すでに極限まで詰っている。しかし、一方伸子の肢態《したい》を考えると、腰を座深めに引いて、そこから下の下肢の部分はやや左向きとなり、上半身はそれとは反対に、幾分右へ傾いているのだ。まさにその形は、わずかほど左の方へ廻転しながら倒れたものに違いない。これは、明らかに反則的だ。何故なら、左の方へ廻転すれば、当然椅子が浮いてこなければならないからだ」
「曖昧な反語はいかん」熊城が難色を現わすと、法水はあらゆる観察点を示して、矛盾を明らかにした。
「勿論現在のこの形を、最初からのものとは思っちゃいないさ。しかし、例えば螺旋に余裕があったにしてもだ。失神時の横揺《よこぶれ》ばかりを考えて、それ以外に重量という、垂直に働く力があるのを忘れちゃならん。それがあるので、動揺しながらも、しだいにその方向が決定されてゆく。つまりその振幅が、低下してゆく右の方向へ大きくなるのが当然じゃないか。さらにまた、もう一案引き出して、今度は右へ大きく一廻転してから、現在の位置で螺旋が詰ったもの
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