思えば、突忽《とっこつ》として現われたのは何あろう、現在|眼《ま》のあたり見る鬼蓮《おにばす》なのである。それであるからして、熊城でさえも一時の亢奮《こうふん》が冷《さ》めるにつれて、いろいろと疑心暗鬼的な警戒を始めたのも無理ではなかった。まったく、意表を絶したこの体態《ていたらく》を見ては、かえって反対の見解が有力になってゆくではないか。易介の咽喉を抉《えぐ》ったと目されている短剣を握り締めて、伸子はこれをとばかりに示しているけれども、一方それ以上厳密に、失神するまでの経路が吟味されねばならない。結論はその一つだった。王妃ブズールが唱えば、雨となって降り下って来る――黒人《ニグロ》の penis に、とうとうこの事件の倒錯性が狂い着いてしまったのである。
 さてここで、鐘鳴器《カリリヨン》室の概景を説明しておく必要があると思う。前篇にも述べたとおり、その室は礼拝堂の円蓋《ドーム》に接していて、振鐘《ピール》のある尖塔の最下部に当っていた。そして、階段を上《あが》りきった所は、ほぼ半円をなした鍵形の廊下になっていて、中央――すなわち半円の頂天とその左右に三つの扉があり、なお、室内に入ってから気づいたことであったが、当時左端の一つのみが開かれていた。そこ一帯の壁面を室内から見ると、それが、音響学的に設計されているのが判る。一口に云えば巨《おお》きな帆立貝であって、凹状の楕円と云ったら当るかもしれない。たぶんここに鐘鳴器《カリリヨン》を具えるまでは、四重奏団《クワルテット》の演奏室に当てられていたのであろうが、したがって中央の扉にも、外観上位置的に不自然であるばかりでなく、後から壁を切って作られたらしい形跡が残っていた。またその一つのみが素晴らしく大きなもので、ほとんど三メートルを越すかと思われるほどの高さだった。そこから、向う側の壁までの間は、空《がら》んとした側柏《てがしわ》の板張りだった。そして、鐘鳴器《カリリヨン》の鍵盤は、壁を刳形《くりがた》に切り抜いて、その中に収められてある。三十三個の鐘群はそれぞれの音階に調律されていて、すぐ直前の天井に吊されているが、それが鍵盤《キイ》と蹈板《ペダル》とによって……その昔カルヴィンが好んで耳を傾け、またネーデルランドの運河の水に乗ると、風車が独りでに動くとか伝えられる、あの物寂びた僧院的な音を発する仕掛になっていた。しかし、音響学的な構造は天井にも及んでいて、楕円形の壁面から鍵盤《キイ》にかけて緩斜をなしている。しかもそれがちょうど響板のように、中央に丸孔が空き、その上が長い角柱形の空間になっていた。そして、その両端が、先刻《さっき》前庭《ぜんてい》から見た、十二宮の円華窓《えんげまど》だった。おまけに、黄道上の星宿が描かれている、絵齣《えごま》の一つ一つが、本板から巧妙な構造で遊離しているので、その周囲には、一辺を除いて細い空隙が作られ、しかも、空気の波動につれて微かに振動する。それがなんとなく楽玻璃《グラス・ハーモニカ》のようでもあるが、とにかく、その狭間《はざま》を通過する音は、恐らく弱音器でもかけられたように柔げられるであろうから、鐘鳴器《カリリヨン》特有の残響や、また、協和絃をなしている音ならば、どんなに早い速度で奏したにしても、ある程度までは混乱を防ぎ得るのである。この装置は三十三個の鐘群も同様で、ベルリンのパロヒアル寺院を模本としたものであるが、パロヒアル寺院では、反対にそれが、礼拝堂の内部に向けて作られてある。こうして、法水の調査は円華窓附近にも及んだけれど、わずかに知ったのは、その外側を、尖塔に上る鉄梯子が過《よぎ》っているという一事のみであった。
 やがて、法水は私服に命じて戸外に立たしめ、自分は種々と工夫を凝らして鍵盤《キイ》を押し、何より根本の疑義であるところの倍音を証明しようとしたが、その実験はついに空しく終ってしまった。結局、鐘鳴器《カリリヨン》で奏し得る音階が、二オクターヴにすぎないということと、それに、先刻《さっき》聴いた倍音というのが、その上の音階であるという――二つが明らかにされたのみであった。かつて聖アレキセイ寺院の鐘声にも、これとよく似た妖怪的な現象が現われたことがあった。けれども、それは単なる機械学的な問題で、つまり振り鐘の順序にすぎなかったのである。ところが、今度はそれと異なって、第一に三十あまりの音階を決定している――換言すれば、物質構成の大法則であるところの鐘の質量に、そもそも根本の疑惑がこもっているのだ。それゆえ、詮じ詰めてゆくと、結局鐘の鋳造成分を否定するか、それとも、楽音を虚空から掴《つか》み上げた、精霊的な存在があったのではないか――と云うような、極端な結論に行き着いてしまうのも、やむを得ないのであった。こうして、倍音の神秘が
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