、誰の脳裡にもあることだったけれども、妙に口にするのを阻《はば》むような力を持っていた。続いて、引き摺られたように検事も復誦したのだったが、その声がまた、この沼水のような空気を、いやが上にも陰気なものにしてしまった。
「ああ、そうなんだ支倉君、それが兜と幌骨――なんだよ」と法水は冷静そのもののように、「だから、一見したところでは、法医学の化物みたいでも、この死体に焦点が二つあろうとは思われんじゃないか。むしろ、本質的な謎というのは、易介がこの中へ、自分の意志で入ったものかどうかということと、どうして甲冑を着たか……つまり、この具足の中に入る前後の事情と、それから、犯人が殺害を必要としたところの動機なんだ。無論僕等に対する挑戦の意味もあるだろうが」
「莫迦《ばか》な」熊城は憤懣《ふんまん》の気を罩《こ》めて叫んだ。「口を塞《ふさ》ぐよりも針を立てよ――じゃないか。見え透いた犯人の自衛策なんだ。易介が共犯者であるということは、もうすでに決定的だよ。これがダンネベルグ事件の結論なんだ」
「どうして、ハプスブルグ家の宮廷陰謀じゃあるまいし」と法水は再び、直観的な捜査局長を嘲った。
「共犯者を使って毒殺を企てるような犯人なら[#「共犯者を使って毒殺を企てるような犯人なら」に傍点]、既《とう》に今頃、君は調書の口述をしていられるぜ」
それから廊下の方へ歩み出しながら、
「さて、これから鐘楼で、僕の紛当《まぐれあた》りを見ることにしよう」
そこへ、硝子の破片がある附近の調査を終って、私服の一人が見取図を持って来たが、法水は、その図で何やら包んであるらしい硬い手触りに触れたのみで、すぐ衣嚢《ポケット》に収め鐘楼に赴《おもむ》いた。二段に屈折した階段を上りきると、そこはほぼ半円になった鍵形の廊下になっていて、中央と左右に三つの扉があった。熊城も検事も悲壮に緊張していて、罠《わな》の奥にうずくまっているかもしれない、異形《いぎょう》な超人の姿を想像しては息を窒《つ》めた。ところが、やがて右端の扉が開かれると、熊城は何を見たのか、ドドドッと右手に走り寄った。壁際にある鐘鳴器《カリリヨン》の鐘盤の前では、はたせるかな紙谷伸子が倒れていたのだ。それが、演奏椅子に腰から下だけを残して、そのままの姿で仰向けとなり、右手にしっかりと鎧通《よろいどお》しを握っているのだった。
「ああ、こいつが」と熊城は何もかも夢中になって、伸子の肩口を踏み躙《にじ》ったが、その時法水が中央の扉を、ほとんど放心の態で眺めているのに気がついた。卵色の塗料の中から、ポッカリ四角な白いものが浮き出ていた。近寄ってみると、検事も熊城も思わず身体が竦《すく》んでしまった。その紙片には……
Sylphus《ジルフス》 Verschwinden《フェルシュヴィンデン》(風精《ジルフス》よ消え失せよ)
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第三篇 黒死館精神病理学
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一、風精《ジルフス》……異名《エーリアス》は?
Sylphus《ジルフス》 Verschwinden《フェルシュヴィンデン》(風精《ジルフス》よ。消え失せよ)
鐘鳴器《カリリヨン》室に三つあるうちの、中央の扉高くに、彼等の凝視を嘲り返すかのごとく白々しい色で、再びファウストの五芒星呪文の一句が貼り附けられてあった。のみならず、Sylphe《ジルフェ》 の女性をそれにもまた男性化しているばかりでなく、再び古|愛蘭《アイリッシュ》のような角張ったゴソニック文字で、それには筆者の性別は愚かなこと毛のような髯線《ぜんせん》一筋にさえ、筆蹟の特徴を窺うことは許されなかったのである。あの緊密な包囲形をどう潜り抜けたものか、また伸子が犯人で、法水《のりみず》の機智から発した包囲を悟り、絶体絶命の措置《そち》に出たものであろうか……。いずれにしろここで、皮肉な倍音演奏をした悪魔を決定しなければならなかった。
「これは意外だ。失神じゃないか」伸子の全身をスラスラ事務的に調べ終ると、法水は熊城《くましろ》の靴をジロリと見て、「微かだが心動が聞えるし、呼吸も浅いながら続けている。それに、このとおり瞳孔反応もしっかりしてるぜ」
そう法水に宣告されてしまうと、つい今しがた此奴《こやつ》とばかりに肩口を踏み躙《にじ》った熊城でさえ、そろそろ自分の軽挙が悔まれてきた。と云うのは、勿論|鎧通《よろいどお》しを握って、|此の人を見よ《エッケ・ホモ》――とばかりにのけ反りかえっている、紙谷伸子《かみたにのぶこ》の姿体だったのである。それまでは、幽鬼の不敵な暗躍につれて、おどろと跳ね狂う、無数の波頭を見るのみであって、事件の表面には人影一つ差してこなかった。そこへ、一条の泡がスウッと立ち上っていったのだが、それが水面で砕けたと
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