ったのだが、またそれと同時に、もしやと思った生理的な衝撃《ショック》も狙っていたのだ。それは、喉頭後筋※[#「てへん+畜」、第3水準1−84−85]搦《ミュールマンちくでき》という持続的な呼吸障害なんだよ。ミュールマンはそれを『老年の原因』の中で、筋質骨化に伴う衝動心理現象と説いている。勿論|間歇《かんけつ》性のものには違いないけれども、老齢者が息を吸い込む中途で調節を失うと、現に真斎で見るとおりの、無残な症状を発する場合があるのだ。だから、心理的にも器質的にも、僕は滅多に当らない、その二つの目を振り出したという訳なんだよ。とにかく、あんな間違いだらけの説なので、いっさい相手の思考を妨害しようとしたのと、もう一つは去勢術なんだ。あの蠣《かき》の殻を開いて、僕はぜひにも聴かねばならないものがあるからだよ。つまり、僕の権謀術策たるや、ある一つの行為の前提にすぎないのだがね」
「驚いたマキアベリーだ。しかし、そう云うのは?」と検事が勢い込んで訊ねると、法水は微かに笑った。
「冗談じゃないよ、君の方でしたくせに。先刻《さっき》僕に訊ねた(一)・(二)・(五)の質問を忘れたのかい。それに、あのリシュリュウみたいな実権者は、不浄役人どもに黒死館の心臓を窺わせまいとしている。だからさ、あの男が鎮静注射から醒めた時が、事によるとこの事件の解決かもしれないのだよ」
法水は相変らず茫漠たるものを仄《ほの》めかしただけで、それから鍵孔に湯を注ぎ込み、実験の準備をしてから、演奏台のある階下の礼拝堂に赴《おもむ》いた。広間《サロン》を横切ると、楽の音《ね》は十字架と楯形《たてがた》[#「楯形」は底本では「循形」]の浮彫のついた大扉《おおど》の彼方に迫っていた。扉の前には一人の召使《バトラー》が立っていて、法水がその扉を細目に開くと、冷やりとした、だが広い空間を佗《わび》しげに揺れている、寛闊な空気に触れた。それは、重量的な荘厳なもののみが持つ、不思議な魅力だった。礼拝堂の中には、褐《あか》い蒸気の微粒がいっぱいに立ち罩《こ》めていて、その靄《もや》のような暗さの中で、弱い平穏な光線が、どこか鈍い夢のような形で漂うている。その光は聖壇の蝋燭《ろうそく》から来ているのであって、三稜形をした大燭台の前には乳香が燻《た》かれ、その烟《けむり》と光とは、火箭《かせん》のように林立している小円柱を沿上《へのぼ》って行って、頭上はるか扇形《おうぎがた》に集束されている穹窿《きゅうりゅう》の辺にまで達していた。楽の音は柱から柱へと反射していって、異様な和声を湧き起し、今にも、列拱《アルカード》から金色《こんじき》燦然《さんぜん》たる聖服をつけた、司教助祭の一群が現われ出るような気がするのであった。が、法水にとってはこの空気が、問罪的な不気味なものとしか考えられなかった。
聖壇の前には半円形の演奏台が設《しつら》えてあって、そこに、ドミニク僧団の黒と白の服装をした、四人の楽人が無我恍惚の境に入っていた。右端《うたん》の、不細工な巨石としか見えないチェリスト、オットカール・レヴェズは、そこに半月形の髯《ひげ》でも欲しそうなフックラ膨んだ頬をしていて、体躯《たいく》の割合には、小さな瓢箪《ひょうたん》形の頭が載っていた。彼はいかにも楽天家らしく、おまけに、チェロがギターほどにしか見えない。その次席が、ヴィオラ奏者のオリガ・クリヴォフ夫人であって、眉弓が高く眦《まなじり》が鋭く切れ、細い鉤形の鼻をしているところは、いかにも峻厳な相貌であった。聞くところによれば、彼女の技量はかの大独奏者、クルチスをも凌駕《りょうが》すると云われているが、それもあろうか演奏中の態度にも、傲岸《ごうがん》な気魄と妙に気障《きざ》な、誇張したところが窺《うかが》われた。ところが、次のガリバルダ・セレナ夫人は、すべてが前者と対蹠的な観をなしていた。皮膚が蝋色に透き通って見えて、それでなくても、顔の輪廓が小さく、柔和な緩い円ばかりで、小じんまりと作られている。そして、黒味がちのパッチリした眼にも、凝視するような鋭さがない。総じてこの婦人には、憂鬱などこかに、謙譲な性格が隠されているように思われた。以上の三人は、年齢《としごろ》四十四、五と推察された。そして、最後に第一|提琴《ヴァイオリン》を弾いているのが、やっと十七になったばかりの降矢木旗太郎だった。法水は、日本中で一番美しい青年を見たような気がした。が、その美しさもいわゆる俳優的な遊惰な媚色《びしょく》であって、どの線どの陰影の中にも、思索的な深みや数学的な正確なものが現われ出てはいない。と云うのも、そういった叡知《えいち》の表徴をなすものが欠けているからであって、博士の写真において見るとおりの、あの端正な額の威厳がないからであった。
法水は、
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