イエンス》なんだが、まずデイは、瘧《おこり》患者を附添いといっしょに一室へ入れ、鍵を附添いに与えて扉を鎖さしめる。そして、約一時間後に扉を開くと、鍵が下りているにもかかわらず、扉は化性のものでもあるかのように、スウッと開かれてしまう。そこでデイは結論する――憑神《つきがみ》の半山羊人《フォーン》は遁《のが》れたり――と。ところが、まさしく扉の附近には山羊の臭気がするので、それで患者は精神的に治癒されてしまうのだ。ねえ熊城君、その山羊の臭気というものの中に、デイの詐術が含まれているのだよ。ところで、君はたぶん、ランプレヒト湿度計《ハイグロメーター》にもあるとおりで、毛髪が湿度によって伸縮するばかりでなく、その度が長さに比例する事実も知っているだろう。そこで、試みに、その伸縮の理論を、落し金の微妙な動きに応用して見給え。知ってのとおり、弾条《ぜんまい》で使用する落し金というのは、元来、打附木材住宅《ハーフ・チムバア》([#ここから割り注]漆喰壁の上に規則的な木配りで荒削りの木材を打ち附ける英国十八世紀初頭の建築様式[#ここで割り注終わり])特有のものと云われているのだが、大体が平たい真鍮|桿《かん》の端に遊離しているもので、その桿の上下によって、支点に近い角体の二辺に沿い起倒する仕掛になっている。そして、支点に近づくほど起倒の内角が小さくなるということは、たぶん簡単な理法だから判っているだろう。そこで、落し金の支点に近い一点を結んで、その紐を、倒れた場合水平となるように張っておき、その線の中心とすれすれに、頭髪の束で結んだ重錘《おもり》を置いたと仮定しよう。そして、鍵穴から湯を注ぎ込む。すると、当然湿度が高くなるから、毛髪が伸長して、重錘《おもり》が紐の上に加わってゆき、勿論紐が弓状《ゆみなり》になってしまう。したがって、その力が落し金の最小内角に作用して、倒れたものが起きてしまうのだ。だから、デイの場合は、それが羊の尿《いばり》だったろうと思うのだがね。またこの扉では、傴僂《せむし》の眼の裏面が、たぶんその装置に必要な刳穴《こけつ》だったので、その薄い部分が、頻繁《ひんぱん》に繰り返される乾湿のために、凹陥を起したに違いないのだよ。つまり、その仕掛を作ったのが算哲で、それを利用して永い間出入りしていた人物と云うのが、犯人に想像されるんだ。どうだね支倉君、これで先刻《さっき》人形の室で、犯人が何故絲と人形の技巧《トリック》を遺して置いたのか判るだろう。外側からの技巧《トリック》ばかりを詮索していた日には、この事件は永遠に、扉一つが鎖してしまうのだ。それに、そろそろこの辺から、ウイチグス呪法の雰囲気が濃くなってゆくような気がするじゃないか」
「すると、人形はその時の溢《こぼ》れた水を踏んだという事になるね」と検事は、引きつれたような声を出した。「もう後は、あの鈴のような音《おと》だけなんだ。これで犯人を伴った人形の存在は[#「犯人を伴った人形の存在は」に傍点]、いよいよ確定されたとみて差支えない。しかし、君の神経が閃《ひらめ》くたびごとに、その結果が、君の意向とは反対の形で現われてしまう。それは、いったいどうしたってことなんだい」
「ウム、僕にもどうも解《げ》せないんだ。まるで、穽《わな》の中を歩いているような気がするよ」と法水にも錯乱した様子が見えると、
「僕はその点が両方に通じてやしないかと思うよ。いまの真斎の混乱はどうだ。あれはけっして看過しちゃならん」とこれぞとばかりに、熊城が云った。
「ところがねえ」と法水は苦笑して、「実は、僕の恫※[#「りっしんべん+曷」、第4水準2−12−59]《どうかつ》訊問には、妙な言《ことば》だが、一種の生理|拷問《ごうもん》とでも云うものが伴っている。それがあったので、初めてあんな素晴らしい効果が生れたのだよ。ところで、二世紀アリウス神学派の豪僧フィリレイウスは、こういう談法論を述べている。霊気《ニューマ》([#ここから割り注]呼吸の義[#ここで割り注終わり])は呼気とともに体外に脱出するものなれば、その空虚を打て――と。また、比喩には隔絶したるものを択べ――と。まさに至言だよ。だから、僕が内惑星軌道半径をミリミクロン的な殺人事件に結び付けたというのも、究極のところは、共通した因数《ファクター》を容易に気づかれたくないからなんだ。そうじゃないか、エディントンの『|空間・時・及び引力《スペース・タイム・エンド・グレヴィテイション》』でも読んだ日には、その中の数字に、てんで対称的な観念がなくなってしまう。それから、ビネーのような中期の生理的心理学者でさえも、肺臓が満ちた際の均衡と、その質量的な豊かさを述べている。無論あの場合僕は、まさに吸気《いき》を引こうとする際にのみ、激情的な言葉を符合させてい
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