きべや》でも、鎖されていたのではないから、ほとんど跡は残らぬし、死後はけっして固く握れるものじゃない。けれども、だいたい検屍官なんてものが、秘密の不思議な魅力に、感受性を欠いているからなんだよ」
 その時、この殺気に充ちた陰気な室の空気を揺《ゆす》ぶって、古風な経文歌《モテット》を奏でる、侘《わび》しい鐘鳴器《カリリヨン》の音が響いてきた。法水は先刻《さっき》尖塔の中に錘舌鐘《ピール》([#ここから割り注]錘舌のある振り鐘[#ここで割り注終わり])は見たけれども、鐘鳴器《カリリヨン》([#ここから割り注]鍵盤を押して音調の異なる鐘を叩きピアノ様の作用をするもの[#ここで割り注終わり])の所在には気がつかなかった。しかし、その異様な対照に気を奪われている矢先だった。それまで肱掛に俯伏《うつぶ》していた真斎が必死の努力で、ほとんど杜絶《とぎ》れがちながらも、微かな声を絞り出した。
「嘘だ……算哲様はやはり室《へや》の中央で死んでいたのだ……。しかし、この光栄ある一族のために……儂《わし》は世間の耳目を怖れて、その現場から取り除いたものがあった……」
「何をです?」
「それが黒死館の悪霊、テレーズの人形でした……背後から負《おぶ》さったような形で死体の下になり、短剣を握った算哲様の右手の上に両掌を重ねていたので……それで、衣服を通した出血が少なかったことから……儂《わし》は易介に命じて」
 検事も熊城も、もう竦《すく》み上るような驚愕の色は現わさなかったけれども、すでに生存の世界にはないはずの不思議な力の所在が、一事象ごとに濃くなってゆくのを覚えた。しかし、法水は冷然と云い放った。
「これ以上はやむを得ません。僕もこの上進むことは不可能なんですから。博士の死体は既《とう》に泥のような無機物ですし、もう起訴を決定する理由と云えば、貴方の自白以外にないのですからね」
 そう法水が云い終った時だった。その時|経文歌《モテット》の音《ね》が止んだかと思うと、突然思いもよらぬ美しい絃《いと》の音《ね》が耳膜を揺りはじめた。遠く幾つかの壁を隔てた彼方で、四つの絃楽器は、あるいは荘厳な全絃合奏《コーダ》となり、時としては囁《ささや》く小川のように、第一提琴《ファースト・ヴァイオリン》がサマリアの平和を唱ってゆくのだった。それを聴くと、熊城は腹立たしそうに云い放った。
「何だあれは、家族の一人が殺されたと云うのに」
「今日は、この館の設計者クロード・ディグスビイの忌斎日《きさいび》でして……」と真斎は苦し気な呼吸の下に答えた。「館の暦表の中に、帰国の船中|蘭貢《ラングーン》で身を投げた、ディグスビイの追憶が含まれているのです」
「なるほど、声のない鎮魂楽《レキエム》ですね」と法水は恍惚《こうこつ》となって云った。「なんだかジョン・ステーナーの作風に似ているような気がする。支倉君、僕はこの事件であの四重奏団《クワルテット》の演奏が聴けようとは思わなかったよ。サア、礼拝堂へ行ってみよう」
 そうして、私服に真斎の手当を命じて、この室《へや》を去らしめると、
「君は何故《なぜ》、最後の一歩というところで追求を弛《ゆる》めたのだ?」と熊城はさっそくに詰《なじ》り掛ったが、意外にも、法水は爆笑を上げて、
「すると、あれを本気にしているのかい」
 検事も熊城も、途端に嘲笑されたことは覚ったけれども、あれほど整然たる条理に、とうていそのままを信ずることは出来なかった。法水は可笑《おか》しさを耐えるような顔で、続いて云った。
「実をいうと、あれは僕の一番厭な恫※[#「りっしんべん+曷」、第4水準2−12−59]《どうかつ》訊問なんだよ。真斎を見た瞬間に直感したものがあったので、応急に組み上げたのだったけれど、真実の目的と云えば、実はほかにあったのだ。ただ真斎よりも、精神的に優越な地位を占めたい――というそれだけの事なんだよ。この事件を解決するためには、まずあの頑迷な甲羅を砕く必要があるのだ」
「すると、扉の窪みは」
「二二が五さ。あれは、この扉の陰険な性質を剔抉《てっけつ》している。また、それと同時に水の跡も証明しているんだ」まさしく仰天に価する逆転だった。グワンと脳天をドヤされたかのように茫然となった二人に、法水はさっそく説明を始めた。「水で扉を開く。つまり、この扉を鍵なくして開くためには、水が欠くべからざるものだったのだ。ところで、最初それと類推させたものを話すことにしよう。マームズベリー卿が著《あら》わした『ジョン・デイ博士鬼説』という古書がある。それには、あの魔法博士デイの奇法の数々が記されているのだが、その中で、マームズベリー卿を驚嘆させた隠顕扉の記録が載っていて、それが僕に、水で扉を開《ひら》け――と教えてくれたのだ。勿論一種の信仰療法《クリスチャンサ
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