の死体現象に関する疑問は、第三条の中に尽されていると思う。外見は、いっこう何でもなさそうな時刻の羅列にすぎないよ。しかし、洋橙《オレンジ》が被害者の口の中に飛び込んだ経路だけにでも、きっとフィンスレル幾何の公式ほどのものが、ギュウギュウと詰っているに違いないんだ。それから、算哲の自殺が、四人の帰化入籍と焚書の直後に起っているのにも、注目する価値があると思う」
「いや、君の深奥な解析などはどうでもいいんだ」と熊城は吐き出すような語気で、「そんな事より、動機と人物の行動との間に、大変な矛盾があるぜ。伸子はダンネベルグ夫人と争論をしているし、易介は知ってのとおりだ。それにまた鎮子だっても、易介が室《へや》を出ていた間に、何をしたか判ったものじゃない。ところが、君の云うファウスト博士の円は、まさに残った四人を指摘しているんだ」
「すると、儂《わし》だけは安全圏内ですかな」
 その時背後で、異様な嗄《しゃが》れ声が起った。三人が吃驚《びっくり》して後を振り向くと、そこには、執事の田郷真斎がいつの間にか入《はい》り込んでいて、大風《おおふう》な微笑をたたえて見下《みおろ》している。しかし、真斎があたかも風のごとくに、音もなく三人の背後に現われ得たのも、道理であろう。下半身不随のこの老史学者は、ちょうど傷病兵でも使うような、護謨《ゴム》輪で滑かに走る手働四輪車の上に載っているからだった。真斎は相当著名な中世史家で、この館の執事を勤める傍《かたわら》に、数種の著述を発表しているので知られているが、もはや七十に垂《なんな》んとする老人だった。無髯《むぜん》で赭丹《しゃたん》色をした顔には、顴骨《かんこつ》突起と下顎骨が異常に発達している代りに、鼻翼の周囲が陥ち窪み、その相はいかにも醜怪で――と云うよりもむしろ脱俗的な、いわゆる胡面梵相《こめんぼんそう》とでも云いたい、まるで道釈画か十二神将の中にでもあるような、実に異風な顔貌だった。そして、頭に印度帽《テュルバン》を載せたところといい――そのすべてが、一語で魁異《グロテスケリ》と云えよう。しかし、どこか妥協を許さない頑迷固陋《がんめいころう》と云った感じで、全体の印象からは、甲羅のような外観《みかけ》がするけれども、そこには、鎮子のような深い思索や、複雑な性格の匂いは見出されなかった。なお、その手働四輪車は、前部の車輪は小さく、後部のものは自転車の原始時代に見るような素晴らしく大きなもので、それを、起動機と制動機とで操作するようになっていた。
「ところで、遺産の配分ですが」と熊城が、真斎の挨拶にも会釈を返さず、性急に口切り出すと、真斎は不遜《ふそん》な態度で嘯《うそぶ》いた。
「ホウ、四人の入籍を御存じですかな。いかにも事実じゃが、それは個人個人にお訊ねした方がよろしかろう。儂《わし》には、とんとそういう点は……」
「しかし、既《とっ》くに開封されているじゃありませんか。遺言書の内容だけは、話してしまった方がいいでしょう」熊城はさすがに老練な口穽《かま》を掛けたけれども、真斎はいっこうに動ずる気色《けしき》もなく、
「なに、遺言状……ホホウ、これは初耳じゃ」と軽く受け流して、早くも冒頭から、熊城との間に殺気立った黙闘が開始された。法水は最初真斎を一瞥《いちべつ》すると同時に、何やら黙想に耽《ふけ》るかの様子だったが、やがて収斂味《しゅうれんみ》の[#「収斂味《しゅうれんみ》の」は底本では「収歛味《しゅうれんみ》の」]かった瞳を投げて、
「ハハア、貴方は下半身不随《パラプレジア》ですね。なるほど、黒死館のすべてが内科的じゃない。ところで、貴方が算哲博士の死を発見されたそうですが、たぶんその下手人が、誰であるかも御存じのはずですがね」
 これには、真斎のみならず、検事も熊城もいっせいに唖然となってしまった。真斎は蟇《がま》みたいに両|肱《ひじ》を立てて半身を乗り出し、哮《た》けるような声を出した。
「莫迦《ばか》な、自殺と決定されたものを……。貴方《あんた》は検屍調書を御覧になられたかな」
「だからこそです」と法水は追求した。「貴方は、その殺害方法までもたぶん御承知のはずだ。だいたい、太陽系の内惑星軌道半径が、どうしてあの老医学者を殺したのでしょう?」

    二、鐘鳴器《カリリヨン》の讃詠歌《アンセム》で……

「内惑星軌道半径※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」このあまりに突飛《とっぴ》な一言に眩惑されて、真斎は咄嵯《とっさ》に答える術《すべ》を失ってしまった。法水は厳粛な調子で続けた。
「そうです。無論史家である貴方は、中世ウェールスを風靡《ふうび》したバルダス信経を御存じでしょう。あのドルイデ([#ここから割り注]九世紀レゲンスブルグの僧正魔法師[#ここで割り注終わり])の流れを汲《く》ん
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